2017/9/15

"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"における筆者たちの「存在論的構造実在論(OSR)」が細かく見えてきたので、そこでトークンとタイプの区別がどう考えられるのかが気になった。「ロケーター」はタイプ/トークンの区別にはコミットしていないらしい。

Use of a locator in a given instance involves no commitment to a type–token distinction: there are locators for each of ‘Napoleon’, ‘French emperors’, ‘French people’, and ‘people’.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p122)

そうなるとトークンとタイプに相当するのはロケーターによって指定されるパターンの要素とリアルパターンだと思う。例えばライフゲーム上に現れる一つの「グライダー」はトークン、圧縮して伝達される「グライダー」リアルパターンはタイプである。デネットが言うようにトークンがアナログ的に無限の差異を持っているなら、それを指定するロケーターは原理上無限に存在しうることになる。しかし物理学の方程式に含まれる変数は有限だろう。つまりリアルパターンはトークンが持つ性質のうちいくつかを計算的に圧縮して伝達することになる。これがデネットのいうデジタル化という操作に相当するだろう。しかしながら存在論的構造実在論においては存在するのは第一にリアルパターン、つまりタイプの方である。だから先にデジタルなものが存在して、個々のトークンを後から想定するということになるだろう。つまりデジタル化というのは話の順番が逆なのである。

そのようにデジタルなリアルパターンといっても私たち観察者はその全てを(経験的に、または時間制約上)知ることはできない。

All sorts of inferences about the state of Napoleon’s hair at other times during his life could be made from the inaccessible information if we had it, so there are aspects of the real pattern that is Napoleon—projectible, non-compressible regularities—we are missing and can’t get. Such is the fate of observers.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p241)

その上で我々が日常用いる対象、そして個別科学の対象は「二階の(second-order)」リアルパターンと言われる。これは基礎物理学の対象である「一階の(first-order)」リアルパターンの表象として考えられている。しかしそれでも二階のリアルパターンもまた実在物であるようだ。

‘Being second-order’ is not a property of a real pattern that makes it ‘less real’; calling a real pattern ‘second-order’ merely says something about its historical relationship to some other designated real pattern, and so ‘is second-order’ should always be understood as elliptical for ‘is second-order with respect to pattern Rx’.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p243)

それぞれのスケールに相対的な存在論を考える以上、二階のリアルパターンが実在するという主張は必然だろう。しかしこの主張とリアルパターンがもっとも低い「論理深度(logical depth)」を持たなければならないという制約は両立するのだろうか。スケールの大小と計算的な複雑さはあまり関係ないと考えれば二階のリアルパターンが最小の論理深度を持つと想定することもできるかもしれない。これは例えば神経心理学から人間の振る舞いを考えるよりも志向姿勢によって分析する方が計算的に簡単(もしくは同等)だという事態を指す。デネットはこの考え方を支持しているし、筆者たちもそれは経験的に検証されるべきだと言いながらもその可能性を否定していない。

2017/9/14

昨日"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"におけるリアルパターンと数学的構造の形式的対応づけについて書いたが、「ロケーター」の扱いについて勘違いしていた気がする。数学的構造を実装する関数の変数(ロケーター)同士の関係が計算的に圧縮可能だと書いたがそれは正しくない。リアルパターンという考え方において圧縮可能なのはそのパターン自体を伝達する際の情報量である。例えばライフゲームにおいて「グライダー」というパターンはドットの配置を全て書き起こさなくても伝達可能であり、座標を変えて同じパターンを再現することができる。そしてこのような伝達と再現のことが「投射」と呼ばれているのだろう。ここで計算的に圧縮可能な関係が成り立っているのは個々の変数の間というより、その変数によって指定された要素(例えば個々のグライダー)の間である。おそらく筆者たちはこの要素が構造の項として二次的に現れてくる個物だと考えているのだと思う。そして昨日引用した部分を見るとこうやって圧縮可能な形で伝達されるのがリアルパターンということになる。

さて、これをデネットのいう「物語的重力の中心」といった考え方に適用することもできる気がする。この場合志向姿勢に基づいて言語化された振る舞いの主語(物語的重力の中心としての自己)は一つの要素を構成する変数(ロケーター)の一つであり、デネットの言うように実在物ではない。実在するのはこのように言語化された、つまりは計算的に圧縮された志向性の方である。そして言語化された振る舞いは物語を構成し、それが意識となるわけだからこの考え方では意識もまた一つのリアルパターンとなる。こうして考えるとデネット心の哲学的な主張と志向姿勢についての思想が繋がってきて面白い。

2017/9/13

今日も"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。4章4節"RAINFOREST REALISM"ではデネットのリアルパターンと数学的な構造の対応が形式的に議論されている。あまりよくわかっていないと思うがなんとか再構成してみたい。数学的な構造は具体的なリアルパターン(この場合実在物である)となんらかの関数によって対応づけられる。この際関数にはいくつかの変数があり、それらがこの対応づけにおける「ロケーター」として機能する。このロケーターは筆者たちの構造実在論において「個物」の代替となるものである。また変数が複数考えられることからリアルパターンは次元性を持っている。これは例えば変数を縦横高さの三つだと考えるとわかりやすい。関数の変数同士の間には(関数なので当然)なんらかの関係性が成り立っている。これがロケーターによって具体化されたリアルパターンである。リアルパターンは計算的に圧縮可能なアルゴリズムであるから、これらの要素間の関係(「投射」と呼ばれる)は計算的なものとなる。この関係性は(計算なので)あるスケールの視点においてある計算機によって実装されるが、その際にこの関係が成り立つ可能性という概念を導入して様相性が確保されているようだ。このようにして以前に批判されていたリアルパターンであることの十分性の欠如が克服されている。

To be is to be a real pattern; and a pattern is real iff
(i) it is projectible under at least one physically possible perspective; and
(ii) it encodes information about at least one structure of events or entities S where that encoding is more efficient, in information-theoretic terms, than the bit-map encoding of S, and where for at least one of the physically possible perspectives under which the pattern is projectible, there exists an aspect of S that cannot be tracked unless the encoding is recovered from the perspective in question.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p226)

その十分性というのはおそらく「物理的に可能な」視点や計算機といった実装手段を指しているのだろう。これは人間に実現可能なものを超えているので完全に経験的な制約というわけではない。

2017/9/12

今日もまた"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。第4章2節ではデネットの"Real Patterns"という論文について検討されていた。筆者たちはその論文の基本的な主張については同意しつつも、デネット実在論道具主義のどちらをとっているかあまり明確でないところを批判している。この本では構造実在論という科学法則によって記述される構造(=パターン)の実在論が取られており、この論文も当然実在論的に読まれることになる。その場合のリアルパターンとは計算的に圧縮可能なパターンのことを指す。「圧縮可能」という表現は様相性を含んでおり、様相的な構造が実在するという筆者たちの主張とも合致する。またリアルパターンは観測者の有無にかかわらず存在する実在物だと考えられる。その上でデネットが提示した圧縮可能という条件は必要条件であり十分条件ではないと論じている。

Though it offers the major achievement of the compressibility requirement—that a real pattern cannot be a bit-map of its elements—as a necessary condition on real pattern-hood, Dennett never provides an explicit analysis of sufficient conditions. (Obviously compressibility isn’t sufficient, or every redescription of anything would conjure a new real pattern into being.)
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p205)

というのも圧縮可能であることのみが条件なら単なる言い直しなどもリアルパターンに含まれてしまうからだ。

デネットの論文を自分で読む限り確かに実在論かどうかどっちつかずな印象を受ける。個人的にはデネット道具主義的な、というより存在論を道義主義的に作り変えると言う趣旨で考えているように思った。それゆえに(コンサバティブな?)実在論としての読み方は新鮮で面白かった。実際のところ「明示的イメージ」や「科学的イメージ」上の実在と世界そのものの実在を分ける考え方の方が望み薄かもしれない。ここにはフッサールからハイデガーへの転換、つまり意識の上での対象をそのまま世界における存在者と読み替えるような変遷があるように思う。

2017/9/10

またしても"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読み進めている。第3章まで読み終わった。第3章は具体的な現代の物理学上の論争を通覧して筆者たちの(存在論的)構造実在論を基礎づけていた。かなり分からない部分がありなんとか誤魔化しながら読んでいた中で興味を引いたのが様々な個別科学を物理学によって基礎づけることができるかどうかという問題だった。筆者たちは物理学という「基礎的レベル」を議論することが存在論であり高次のレベル上の対象はそこから構成されるものだという見解を否定する。

One reason why we believe this is that we reject any grounds other than explanatory and predictive utility for admitting something into our ontology. However, we also have a more basic problem with the idea of a fundamental level, namely, its presupposition that reality is structured into levels in the first place. [~] A moment’s reflection makes the limitations of this obvious since economics can be applied to an ant colony or the world economy, and evolutionary theory can be applied to entities of any size (even, according to Smolin (2000), to the whole universe). Furthermore, in accordance with physics, we regard the structure of space and the metric used to measure length as themselves emergent structures. Hence we can hardly treat them as a fundamental framework within which to describe the levels against which everything else exists.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p179)

ここで言われているのは例えば経済の原理や進化論は様々なレベルに適用可能であり、個別科学特有のレベルという考え方には限界があるということである。そして物理的な空間などの概念もまた様々なレベルに適用可能であることから、それらが基礎的なフレームとなることはない。やはりアトミズムのような単純な存在論で様々な科学を考えることは難しいようだ。この点で筆者たちの言うように様々な科学的仮説を結びつける形而上学(Principle of Naturalistic Closure)の重要性が浮かび上がってくる。

2017/9/2

急に相対性理論について知りたくなったので図書館で『相対性理論 常識への挑戦』という本を借りて読んでいた。22歳にもなって夏休みの自由研究をする小学生のような行動で悲しくなる。光の速度が一定なので相対的に運動していると時間や空間が変化するということは知っていたが、そうなると「双子のパラドックス」が生じてそれがどう解決するのかがわからず悩んでいた。それゆえにそのあたりに注目しながら読んだり調べたりしたところ一定の理解が得られたので書いておきたい。まず第一に知ることができたのは光の速度がどんな状況でも一定であるということが実験によって経験的に確かめられているという点だ。単に計算上うまくいくために仮定された公理だと思っていたのでちょっと驚いた。次に光の速度が一定なので相対運動によって光が遅く見えたり早く見えたりするのは時空が歪んでいるからであるという特殊相対性理論の帰結を確認した。そこから進んで一般相対性理論では重力=加速度(等価原理)による時空の歪みも考えられる。基本的に重力の強い方が時間の進みが遅くなり、それはつまり(向きに関係なく)加速している方が時間の進みが遅くなることを意味する。以上のことから双子のパラドックスについて考えてみよう。双子のパラドックスとは、地球に対して動いているロケットを地球から見ると特殊相対性理論によってロケットの時間が遅くなっているように見え、逆にロケットから見ると相対的に動いている地球での時間が遅くなっているように見える現象をいう。しかしロケットは地球から離れる時と戻るときにそれぞれ加速(減速も方向の違う加速である)を行う。そこで一般相対性理論により加速している(強い重力のかかっている)ロケットの方で時間が遅れる。特殊相対性理論一般相対性理論での時空の歪みを合算すると結局はロケットでの時間の方が地球からの観測による計算と合致する形で遅れている。これはロケットから見て特殊相対性理論(相対運動)による地球での時間の遅れよりも一般相対性理論(加速)によるロケットにおける時間の遅れ(つまり地球での時間の加速)が上回ることによる。というわけで亜光速での宇宙の旅から帰ってくると地球の人々は自分より速く老いているというウラシマ効果が現れるのである。

2017/8/30

今日も"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。2章を読み終わったところで筆者たちの言う構造実在論というものが大体見えてきた。これはこれまでの科学的実在論のようになんらかの個物に実在性を与えるのではなく、現象間の関係性などの様相性を持った構造に実在性を与えるという考え方であるらしい。こうすることでパラダイムシフトにおいて科学的実在論が被ることになる存在論的な不連続性が回避される。なぜならパラダイムシフトの前後でも自然法則や方程式の構造は変化していないからだ(いくつか実例が示されていたが科学の変化全てがそうなっているかどうかという点には疑問の余地がある)。そしてまた科学の対象に実在性を認めているのだから、構成的経験論(反実在論の一種)ともまた異なる立場である。さて、そのような構造実在論で言われる「構造」は非形式的にいえばデネットのいう「リアルパターン」であるらしい。このリアルパターン論を構造についての実在論と解釈する視点は個人的に面白かった。確かにパターンをなんらかの個的対象だと考えるよりは構造やプロセスだと考えた方がしっくりくる。その場合に名詞が何を意味するかというとそれはリアルパターンの「場所」を指定するものであるらしい。ただしデネットはこのパターンが実在するというのは「明示的イメージ」上に実在するという意味だと考えているようである。明示的イメージ上の実在をそのまま科学的実在論で言われるような実在と受け取ってよいのかは検討に値する。個人的には我々はそれぞれのイメージの外の世界を知ることはできないのだから、世界=イメージと考えてもいいような気がしている。これは現象学的な視点になるが、ハイデガーはそこから進んで現象=存在者だと捉えているようだし結構ありなのではないだろうか。