2017/8/29

相も変わらず"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。2章は"Scientific Realism, Constructive Empiricism, and Structuralism"という題で科学的実在論、ファン・フラーセンの構成的経験論の紹介と検討、また筆者らの立場である「構造実在論」の紹介が行われている。科学的実在論の問題としていわゆるパラダイムシフトの前後で科学理論が言及する対象が変わるため、実在するとされるものも変わってしまう(存在論的非連続性と呼ばれる)という点がある。そのあたりに対して科学的反実在論がいろいろ考えられるのだが、その一つに構成的経験論がある。これは我々が得る経験を十分に説明するような理論が科学だという主張であるらしい。これに対しても様々な問題が提起されていたが、その中でも個人的に大きな問題だと思うのが観察の理論負荷性である。理論に対して中立的な経験内容というのはいわゆる「与件の神話」でありセラーズが『経験論と心の哲学』批判していた点だった。それならばどうするのかということについて、筆者たちは構造実在論というのを打ち出すようだがその全貌は未だ明らかでない。個人的なオルタナティブとして、存在論を最近っぽくしたバーションの実在論を考えられないだろうかと思う。それはセラーズの言う「明示的イメージ」や「科学的イメージ」上に想定される対象が実在するものだという存在論だ。ただしこれではいわゆる科学的実在論の客観性が担保されるかは定かでない。「科学的イメージ」の客観性はどのように担保されているのだろうか……。

2017/8/15

図書館で見つけた『量子革命』という本を読んでいる。物理学の理論の話が平易に記述されていて読みやすく、また綺羅星の如き物理学者たちの人間関係が生き生きと描かれているので読んでいて楽しい大変良い本だと思う。出てくる人物がぽこじゃかノーベル賞を取るのでノーベル賞のバーゲンセール状態である。さて、読んでいて興味深かったのがハイゼンベルク不確定性原理を見つけた際に念頭に置いていたのが(アインシュタインから伝え聞いていた)哲学者コントの思想であった点だった。それは観察結果は観察者が依拠している理論に依存するという思想である。その後ボーアは量子の波と粒子の二重性は観察実験がどちらの性質を対象としているかによってそれに対応した性質が現れてくると主張する。はじめ私はこの量子の二重性を世界の実在に関わるような問題だと考えていたが、むしろ問題の本質は観察の方にあることがわかった。つまり問題としては現代の分析哲学で取りざたされる「観察の理論負荷性」と言ったものと同種のものなのである。それは結局純粋に客観的な観察(経験)などは存在せず、あくまで現象は私たちがそれを見ているという限りでの現象なのだということだ。量子などのミクロの世界ではただ「見る」ということにも困難が生じる。なぜなら微小な粒子に光をあてると光の粒子との衝突によってその粒子の運動量が変わってしまうからだ。量子力学はこのような私たちの経験の可能性の制約の地平に突き当たったのだと考えることができる。そしてその制約の外にある「物自体」について私たちは波とも粒子とも判断することはできない。

2017/8/13

そういえば最近箸休め(?)にプラトンの『パイドン』を読んでいて、「霊魂不滅の証明」のあたりを読み終わった。心身二元論に反対するものとしてこの証明にはすべて反論しなければならない。概ね「魂」という言葉の定義が曖昧で、いろいろなもの(意識、生命など)を「魂」という言葉に読み込んでしまっているところからこの証明が来ている気がする。例えば想起説に基づいた証明では、経験からは得られない知識の存在から一気に魂が生前も存在していたことまで主要される。現在ではチョムスキーなどが「刺激の貧困論証」などと言っていることと似ているが、その場合そのような知識は脳に器質的に備わったものだと考えられる。こういった後付けの科学知識の話を抜きにしても、想起説による証明には知識がすべて経験から得られるという(おそらく誤った)前提がある。つまり生前に魂が存在していなくても私たちは経験によらない知識を最初から持って生まれることが可能だろうということだ。他に「生きていること」というイデアは変化しないから魂も不滅であるという証明もあった。確かに「生きていること」そのものの概念(形相)が生成変化することはないだろう。しかしだからと言って思考する実体が不滅であるということにならない。ここにも「魂」という言葉が曖昧すぎるという問題があるように思う。

2017/8/12

今日も"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいてあんまり盛り上がるところはなかったが以下の部分を取り上げておきたい。

However, there is a frequent tendency to go on to use the primacy of fundamental physics as if classical physics is still the approximate content of fundamental physics. This, we contend, is the basic source of the widespread confusion of naturalism with the kind of ontological physicalism we reject. Classical physics was (at least in philosophers’ simplifications) a physics of objects, collisions, and forces. When ‘fundamental’ physics is interpreted in these terms, as an account of the smallest constituents of matter and their interactions, it seems reasonable to many to think that everything decomposes into these constituents and that all causal relations among macroscopic entities are closed under descriptions of their interactions.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p44)

どうして「自然主義」が「存在論的物理主義」と混同されるのかというと、哲学者たちの物理学のイメージが古典物理で止まっているかららしい。古典物理では微小な粒子とその衝突が問題となり、そのような事物について記述したり予想することでそれらに「存在論的コミットメント」を行うことになる。そうなると物理主義がこの世界に存在するものについての主張(存在論)に結びつくのだ。しかし現行の物理学をしっかり学んでいるとこのような事態は発生しないらしい。その点についてはこの後の章で述べられるらしいのでその説明を待ちたい。

2017/8/10

相も変わらず"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。筆者たちが考える正しい形而上学のやり方というのは以下のようなものであるらしい。

Any new metaphysical claim that is to be taken seriously should be motivated by, and only by, the service it would perform, if true, in showing how two or more specific scientific hypotheses jointly explain more than the sum of what is explained by the two hypotheses taken separately, where a ‘scientific hypothesis’ is understood as an hypothesis that is taken seriously by institutionally bona fide current science.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p30)

二つ以上の科学的仮説を結合してより説明力を高めるような形而上学的な主張こそが真剣に取り扱われるべきだそうだ。この後でこのパラグラフの内容をより深めていたが、興味深かったのが形而上学が科学の仮説を結合するということの意味だった。それはすなわち科学の変化に従って形而上学も形を変えていくということである。昔の哲学者はとにかく自分の思想が究極であって絶対的な真理だという書き方をしがちだが、この哲学観はそういった傲慢さを排除しているように思える。こういった傲慢さの背景には、世界というのは私たちの認識とは関わらずに確固として一定の性質をもって存在していて、一度それを正しく認識できたならそれこそが不変の真理の発見出るという考え方だろう。私たちは認識論的転回、言語論転回の後を生きている。それはつまり、私たちがアクセスできるのはあくまで私たちに認識された世界であったり私たちの言葉で表現された世界であるということだ。科学もまた人間が持つ世界の認識の仕方の一つ(科学的イメージ)であるからそれに基づいた形而上学があっても良いということなのだろう。この哲学観は一見哲学の特権性(そんなものがあるとして)を損なうようだが、メリットもある。それは科学が変化し続ける限り(その変化は今後も続いていくと思われる)哲学は終わらないということだ。それゆえに哲学者たちは完全な哲学的真理の発見によって飯の種を失うという心配がない。

2017/8/9

今日も"Every Thing Must Go"を読んでいた。各々の分析哲学者がどういった主張をしているかという点はまあいいとして筆者の科学の線引き問題についての見解がおもしろかった。科学は方法論や扱う主題によって科学なのではなく、科学を行う共同体の中でエラーをチェックされていることによって科学であるらしい。だから個々人がどのように科学を行っているかは関係なく、例えば論文誌に投稿して査読されたり学会に出て質疑応答をしたりしていることによって科学者であるのだ。それゆえに個人の認識論的な特権性や直観は科学を行う能力とはならない。

These points are connected to one another by the following claim: individuals are blessed with no epistemological anchor points, neither uninterpreted sense-data nor reliable hunches about what ‘stands to reason’. The epistemic supremacy of science rests on repeated iteration of institutional error filters.(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p29)

ここでは行為の本質ではなくそれがどのような状況によってなされるかによって科学と呼ばれるかどうかが決定される。ある意味で唯名論的とも言える発想かもしれない。例えば創造論なども学会や論文誌、研究室という機構においてなされているならそれは科学となる(実際にはそうではないが)。ここで重要なのは科学を行う主体として個人がそこまで重要でないという点である。現行の複雑な科学の全貌は個人の手にあまるものであり、それゆえに共同体全体として真理に近づいていくことが現在の科学のやり方なのだ。

2017/8/8

今日も"Every Thing Must Go"を読んでいる。分析形而上学がいかにダメなのかということが語られているパートで、その批判は以下のようになっている。分析形而上学は直観を形而上学の基礎として、例えば原子論のような思考にたどり着くがそれは現代の物理学とはフィットしない。現代の物理学、つまりは量子力学では例えば量子もつれのような明らかに直観に反した現象が考えられている。ゆえに分析形而上学はもともとの分析哲学的なモチベーションを離れて科学を無視する内容となっているのである。確かにそうだと思うが、形而上学が必ずしも現行の科学と共存可能なものである必要があるわけではないだろう。LadymanとRossとしては、科学に即した形而上学は科学の成功によって擁護されうるが、そうでない形而上学を擁護してくれる理論的成功というものはない、という点が形而上学に科学に対する目配せを要求する根拠であるようだ。

With respect to Lowe’s second claim, it is enough to point out that even if naturalism depends on metaphysical assumptions, the naturalist can argue that the metaphysical assumptions in question are vindicated by the success of science, by contrast with the metaphysical assumptions on which autonomous metaphysics is based which are not vindicated by the success of metaphysics since it can claim no such success.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p7)