2017/8/12

今日も"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいてあんまり盛り上がるところはなかったが以下の部分を取り上げておきたい。

However, there is a frequent tendency to go on to use the primacy of fundamental physics as if classical physics is still the approximate content of fundamental physics. This, we contend, is the basic source of the widespread confusion of naturalism with the kind of ontological physicalism we reject. Classical physics was (at least in philosophers’ simplifications) a physics of objects, collisions, and forces. When ‘fundamental’ physics is interpreted in these terms, as an account of the smallest constituents of matter and their interactions, it seems reasonable to many to think that everything decomposes into these constituents and that all causal relations among macroscopic entities are closed under descriptions of their interactions.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p44)

どうして「自然主義」が「存在論的物理主義」と混同されるのかというと、哲学者たちの物理学のイメージが古典物理で止まっているかららしい。古典物理では微小な粒子とその衝突が問題となり、そのような事物について記述したり予想することでそれらに「存在論的コミットメント」を行うことになる。そうなると物理主義がこの世界に存在するものについての主張(存在論)に結びつくのだ。しかし現行の物理学をしっかり学んでいるとこのような事態は発生しないらしい。その点についてはこの後の章で述べられるらしいのでその説明を待ちたい。

2017/8/10

相も変わらず"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。筆者たちが考える正しい形而上学のやり方というのは以下のようなものであるらしい。

Any new metaphysical claim that is to be taken seriously should be motivated by, and only by, the service it would perform, if true, in showing how two or more specific scientific hypotheses jointly explain more than the sum of what is explained by the two hypotheses taken separately, where a ‘scientific hypothesis’ is understood as an hypothesis that is taken seriously by institutionally bona fide current science.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p30)

二つ以上の科学的仮説を結合してより説明力を高めるような形而上学的な主張こそが真剣に取り扱われるべきだそうだ。この後でこのパラグラフの内容をより深めていたが、興味深かったのが形而上学が科学の仮説を結合するということの意味だった。それはすなわち科学の変化に従って形而上学も形を変えていくということである。昔の哲学者はとにかく自分の思想が究極であって絶対的な真理だという書き方をしがちだが、この哲学観はそういった傲慢さを排除しているように思える。こういった傲慢さの背景には、世界というのは私たちの認識とは関わらずに確固として一定の性質をもって存在していて、一度それを正しく認識できたならそれこそが不変の真理の発見出るという考え方だろう。私たちは認識論的転回、言語論転回の後を生きている。それはつまり、私たちがアクセスできるのはあくまで私たちに認識された世界であったり私たちの言葉で表現された世界であるということだ。科学もまた人間が持つ世界の認識の仕方の一つ(科学的イメージ)であるからそれに基づいた形而上学があっても良いということなのだろう。この哲学観は一見哲学の特権性(そんなものがあるとして)を損なうようだが、メリットもある。それは科学が変化し続ける限り(その変化は今後も続いていくと思われる)哲学は終わらないということだ。それゆえに哲学者たちは完全な哲学的真理の発見によって飯の種を失うという心配がない。

2017/8/9

今日も"Every Thing Must Go"を読んでいた。各々の分析哲学者がどういった主張をしているかという点はまあいいとして筆者の科学の線引き問題についての見解がおもしろかった。科学は方法論や扱う主題によって科学なのではなく、科学を行う共同体の中でエラーをチェックされていることによって科学であるらしい。だから個々人がどのように科学を行っているかは関係なく、例えば論文誌に投稿して査読されたり学会に出て質疑応答をしたりしていることによって科学者であるのだ。それゆえに個人の認識論的な特権性や直観は科学を行う能力とはならない。

These points are connected to one another by the following claim: individuals are blessed with no epistemological anchor points, neither uninterpreted sense-data nor reliable hunches about what ‘stands to reason’. The epistemic supremacy of science rests on repeated iteration of institutional error filters.(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p29)

ここでは行為の本質ではなくそれがどのような状況によってなされるかによって科学と呼ばれるかどうかが決定される。ある意味で唯名論的とも言える発想かもしれない。例えば創造論なども学会や論文誌、研究室という機構においてなされているならそれは科学となる(実際にはそうではないが)。ここで重要なのは科学を行う主体として個人がそこまで重要でないという点である。現行の複雑な科学の全貌は個人の手にあまるものであり、それゆえに共同体全体として真理に近づいていくことが現在の科学のやり方なのだ。

2017/8/8

今日も"Every Thing Must Go"を読んでいる。分析形而上学がいかにダメなのかということが語られているパートで、その批判は以下のようになっている。分析形而上学は直観を形而上学の基礎として、例えば原子論のような思考にたどり着くがそれは現代の物理学とはフィットしない。現代の物理学、つまりは量子力学では例えば量子もつれのような明らかに直観に反した現象が考えられている。ゆえに分析形而上学はもともとの分析哲学的なモチベーションを離れて科学を無視する内容となっているのである。確かにそうだと思うが、形而上学が必ずしも現行の科学と共存可能なものである必要があるわけではないだろう。LadymanとRossとしては、科学に即した形而上学は科学の成功によって擁護されうるが、そうでない形而上学を擁護してくれる理論的成功というものはない、という点が形而上学に科学に対する目配せを要求する根拠であるようだ。

With respect to Lowe’s second claim, it is enough to point out that even if naturalism depends on metaphysical assumptions, the naturalist can argue that the metaphysical assumptions in question are vindicated by the success of science, by contrast with the metaphysical assumptions on which autonomous metaphysics is based which are not vindicated by the success of metaphysics since it can claim no such success.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p7)

2017/8/7

発表も終わったのでのびのびと研究しようと思ってJames LadymanとDon Rossの"Every Thing Must Go"という本を読んでいる。とりあえずは「分析形而上学(analytic metaphysics)」というものが批判されているのだがそもそも分析形而上学がなんなのかよくわからないのでそのあたりに注意して読んでいた。どうやら分析形而上学は以下のような流れで登場してきたらしい。まず論理実証主義があって「感覚与件」によって知識を基礎付ける立場が登場する。しかしクワイン全体論的な思想でその発想は否定されてしまう。そうなると一つの経験的な基礎によって諸科学を統一することができないので、クーンが考えるような学問同士の共訳不可能性が生じてしまう。つまりはそれぞれの個別科学で考えられるような世界観を統一することができなくなるのである。だがしかしセラーズの言うように哲学の目的は日常的な世界観と科学の描く世界観を統一することだから、哲学者としてはそこで満足できない。それでも経験的な基礎を求めることはできないので、直観に従って形而上学をやるというのが分析形而上学ということらしい。ここでは今までの分析哲学のように科学を重視する姿勢は存在していない。これがいいのか悪いのかまだわからないので読み進めていきたいと思う。

2017/8/1

ダークナイト』しか見たことがなかったのでネットフリックスで『バットマン・ビギンズ』から三部作を見ていた。『ダークナイト』だけ異色な作風で『バットマン・ビギンズ』『ダークナイト・ライジング』はヒーローアクションとして王道の作りだったように感じる。『ダークナイト・ライジング』の最後のシーン、ゴードンがバットマンの正体に気づくシーンが好きだった。核爆弾と心中しようとするバットマンに対してヒーローが必要だというゴードンに、「ヒーローとはあなたのような人だ」と返答するバットマン。そこで『バットマン・ビギンズ』で両親が殺されたブルース・ウェインに若い頃のゴードンが励ましの言葉をかけたシーンがフラッシュバックする。このシーンであの日からゴードンがブルース・ウェインにとってのヒーローだったことが明かされる。ゴードンが三部作を通して(正体を知らない人間の中で)唯一と言っていい通してバットマンの理解者だったのに対して、バットマンのゴードンに対する思いについてはあまり描写がなかった中でこのシーンが最後にやってくるので大変感動した。

2017/7/31

なんとなく見ていなかった『アリスと蔵六』のアニメの最後3話を見た。「ワンダーランド」が現実世界の物理法則を模倣して新しい宇宙になるという話で、宇宙進化論を思い出していた。宇宙進化論というのは、宇宙がそれぞれ少しずつ物理法則の異なった子供の宇宙を生み出してそれらの世代交代によって宇宙が進化していくという考え方らしい。物理法則の差異によってより子供の生み出しやすい(?)宇宙ができればその適応度が高いということになる。「ワンダーランド」が世界の物理法則を真似ている、つまり複製しているならそれは宇宙が子供を生んでいるプロセスである。しかしこの宇宙進化論というのも話のスケールが大きすぎるというか、別の宇宙なんて観測不可能だしまさに"Just so story"だと思う。というより宇宙に物理法則が備わっている、もしくは法則という形をしていなくてもなんらかの性質が備わっているという点も議論の余地のある想定なのではないだろうか。