2017/7/17

次から次へと課題がやってきて、統計と因果関係についてレポートを書いている。因果関係というものについて、私の基本的な見解はショーペンハウアーの(つまり簡素化したカントの)もので、世界に対して人間の悟性が投げ入れるものだというものである。私たちが投げ入れるということは、生物としての私たち人間という観点からも因果関係について分析することが可能であることを意味する。つまり生物としての生存、進化において、世界に因果関係を見出すことに意味があったのである。逆に言えばそのような有用性がなければ因果関係を見出す機能が進化する理由が存在しないことになる。そしてその有用性についてはいくつか考えられる。まず思いつくものとして将来の予測が可能となることである。ある原因を確認すれば次にそれに対応する結果が生じると予測できる。競争相手よりも先を予想できれば優位に立つことができ、生存する可能性が高まる。次に過去方面を考えてみると、知識の整理ということが挙げられると思う。過去の事象を因果関係という形式に整理することによって記憶が簡単になり、また思い出しやすい。そしてその記憶は将来の予測に役立つことで間接的に適応度を高める。

2017/7/15

5ヶ月ぶりに『幻想再帰のアリュージョニスト』が更新されるめでたい日となった。今回も呪術による現実の改変という定番の手法が用いられている。

つまり――ゼドははじめから『黄金』位のコーデを所有するアイドルだった。
 衝撃の事実に凍り付くミルーニャたち。
 女装した三十代男のむくつけき肢体は夜会服に彩られどこかアダルティな雰囲気を醸し出しており、蝶の髪飾りによって彩られたツインテールの白髪と腰の蝶型リボンが小悪魔的な少女の愛らしさを匂わせる。濡れた唇にはうっすらとした紅をさし、爪は吸い込まれるような暗い紫。『女』の所作には照れが無い。淀みが無い。完璧な変装、比類無き女装をしているのだから自分は女に決まっている。

 盗賊王の詐術は、世界を、神々と竜の目すらも欺いた。もうひとつの『黄金』を纏うに相応しい、この迷宮最強のアイドルが降り立った瞬間であった。ツインテールの少女はステップを踏むようにクレイに近付いていく。
(幻想再帰のアリュージョニスト 幕間『罪貨の略奪者』http://ncode.syosetu.com/n9073ca/178/

完璧に女装をしている「から」実体としてのゼドが美少女になるというのは、女性の姿の認識が現実そのものを書き換えていることを意味する。これは観念論的な世界観だが、よく考えれば小説の登場人物は観念であるので何の問題もない。そもそも言語的な認識を直接形成する独立な実体的世界というものが、最近の哲学ではかなり危険な主張ということになっている。セラーズ曰くそれは「感覚与件」によって知識が基礎づけられるという「与件の神話」なのだ。つまり私たちが前もって得ている知識(「完璧な変装、比類無き女装をしている」)が認識に対して多かれ少なかれ影響を及ぼしている。だからその認識を完全に改変できるなら世界すら変えることができるのだ(「盗賊王の詐術は、世界を、神々と竜の目すらも欺いた。」)。これは物語世界にしか妥当しない主張のように思えるが、言語から見れば現実世界も物語世界も同様に超越的に想定されたものである。認識が世界を改変するという論理を記述していること、つまり『幻想再帰のアリュージョニスト』(とこの文章)で行われていることはメタ的な記述であり、その辺りがオブジェクトレベルでの他の小説と一線を画するポイントだろう。

2017/7/14

Mooreの"External and Internal Relations"の要約がようやく一通り終わった。とにかく文章がややこしいということ何度か述べたが、極め付けの一文を以下に引用する。

And it will also follow that any such property is grounded in the qualities which the term has, in the sense, that if you take all the qualities which the term has it will again follow in the case of each relational property, from the proposition that the term has all those qualities, that it has the relational property in question; since this is implied by the proposition that in the case of any such property, any term which had not had it would necessarily have been different in quality from the term in question.(p14)

"~which the term has it will again follow in the case of each relational property, from the proposition that~"のあたりが最悪で、まず五語目の"it"が関係代名詞節の目的語なのかif節が終わった後の主節の主語なのかが分かりづらい。そして次に"will again follow~"と動詞が来るわけだが、そのあとに"in the case of each relational property"と副詞節が入って"follow from~"と読むのが難しい。そもそも一文が長すぎる。と文句ばかりになったが論文としては面白いと思う。個物とその間の関係性という点が気にならない人にとってはあまり面白くないと思うけど……。

2017/7/13

今日もまたMooreの"External and Internal Relations"を要約している。後半の形式論理が出てくるあたりが初読ではちんぷんかんぷんだったのだが、二回目読んでみるとなんだかわかる気がする。特に肝となる証明の部分も、様相論理を使って表現し直してみると分かってきた。様相論理は最近受けていた論理学の講義で習得し直していたので講義には出るものだなあという気分になる。しかしそもそもの問題として、あるものの性質が変更されたときそれは別のものになるのだろうか。不可識別者同一の原理というのがあって、あらゆる性質が同じものは同じものだという主張である。これは必要十分条件なので、ある性質が異なっているものは別のものだと主張することができる。Mooreはどうやら不可識別者同一の原理には賛成しないようである。なぜならある種の性質を持たなくなってもあるものはそのものであり続けると考えているからだ。しかし私たちに認識できるものが性質のみだとするなら、その奥にある実体の同一性を語ることができるのだろうか。つまりは性質とは別の実体、例えばアリストテレスの第一質料みたいなものを考えることができるのかという問題である。個人的な意見としては個体というのはある種の性質の集まりに対してつけられる名前でしかないと考える。だからその名前の下に包摂される性質の集合は変更されうる。その変更によって個体名が変わるかどうかは認識上の問題なのではないだろうか。

2017/7/11

統計と因果の講義で因果グラフ理論が紹介されて、そこでマルコフネットワーク的なものが登場した。少し前に機械学習の本でマルコフネットワークのモンテカルロ法を用いた学習の話題があったので、なんでも役立つものだなあという気持ちがする。統計的に集められた確率データをマルコフネットワークとして表現することで因果関係を表せるらしい。これは例えばある事象が起こらなかった可能世界を考えたい時に、マルコフネットワークを一部修正すればその可能世界での事象の生起確率を計算できるメリットがある。なるほどー。

ところで課題でMooreの"External and Internal Relations"を要約している。初めて読んだ時より二回目に読んだ時の方が理解できるというのは、当たり前なのだが不思議でもある。なぜなら与えられている刺激として全く同じなのにその受け取り方が変わっているからだ。人間の認識が記憶や認識システムの状態によって大きく変わるということの一つの例となるだろう。この考え方でいくと純粋な経験論よりも「観察の理論負荷性」といった思想に軍配が上がる気がする。

2017/7/6

インターネットで規範や政治的な正しさなどを他者に要求している人のモチベーションがよくわからない。ここでは道徳的な「〜すべき」という言明は、同じ規範を共有することでゲーム理論的な社会の全体利益を得るためのものだと考える。その場合同じゲーム、つまり共同作業に従事する予定のない人間に対して規範を共有しようとする理由がない。だからそれは合理的な規範共有のための機能のバグというか誤った使用なのではないだろうか。しかし倫理を一つのミームと捉えると、それが人間の利益のために存在しているとは限らないと言える。協働予定のない人間への規範ミームの押し付けは単に規範の生存のためとも考えられるのだ。別の観点から言えば他者に押し付けたくなるような規範ミームは多くの人の脳内に住み着くことになる。またある社会で人間の適応度を高めていたミームが現在の社会では適応度に関わらない(または適応度を下げる)ようになっても、それが単に広がりやすいからという理由で広がっていくことは十分にあり得る。ただこう主張することで規範の価値を貶めてみても、私たち有限の思考能力しか持たず他者の振る舞いを完璧には予想できない私たちは、規範の共有によって協調する他にない。これこそ人間というか生物の持つ悲劇ではないだろうか。

2017/7/5

大学に行ったり寝たりしていたら1日が終わったので大学でのことを書く。カントの『純粋理性批判』の購読演習をとっていて、今は「純粋理性の誤謬推理」あたりを読んでいる。"ich denke"="cogito"つまり「私は考える」という命題が、カント以前の形而上学の一部門である合理的心理学においては誤って主語とされて超越論的述語(カテゴリー)を付与されることが問題となっていた。誤って主語とされるというのはカントにとっての"ich denke"は「超越論的統覚」でありすべてのカテゴリーよりも一段階メタ的なものであって、カテゴリー的な判断の主語とはならないからである。このことによって"ich, als denkend"つまり「考える私」=魂を主語として四つの判断が生まれる。

  1. 魂は実体である
  2. 魂は質的に単純である
  3. 魂は数的に単一である
  4. 魂は空間内の対象と関係を持つことができる

これら全てはカントにとって純粋理性の誤謬推理ということになるのだと思う。一つ目は魂に実体性を与えるもので心身二元論の基礎をなす。二つ目は魂はそれ以上分割できないという主張で、例えば脳のモジュールという単位に魂を分割還元することができなくなる。三つ目は魂の連続性を含意するだろう。魂が数的に単一ならある瞬間𝑡₁における魂と𝑡₂におけるそれは同じものということになるだろうからである。四つ目においてはデカルト以降のさまざまな哲学者が悩んだ心身二元論の問題が浮き彫りになる。延長(物理的対象)も実体であるということから、一つ目と四つ目の両立ということが困難であるという点が心身二元論批判の核をなしている。