2017/7/4

今日も引き続きMooreの"External and Internal Relations"を読んでいる。内容というか文章の話になるが、単語としてはそこまで難しいものが使われているわけではないのに対して文章がかなり複雑で難しい。例えば"I think"の副詞節がやたら入ったり関係代名詞節が一文に3つくらいあったりする。他にも二重否定の文が多い。英文の二重否定はかなり曲者で、日本語なら「〜ではないわけではない」と文末でそれとわかるのだが英文の場合"not"などの否定句が文中の散りばめられていて大変わかりづらい。英文を読む際は否定語に注意せよと最近よく教えているのはこの辺りが根拠である。反対に前読んだ"Sex and Death"は生物学の哲学の本ということもあって生物学の用語が頻出して単語は難しいが、文章としては平易であった。大学入試で意地悪な問題を作るとしたらおそらくMooreの文章のようなものが出るのだろう。"External and Internal Relations"の内容の話に戻ると、最終的に話がややこしくなってきたので形式論理を使って証明しようという話になってきた。まさに分析哲学という感じである。現状古典論理、一階の述語論理、様相論理くらいがわかっていればこうした論文を読むのに問題はなさそうだと感じている。逆に高階の述語論理や非古典論理が出てくるような論文はもはや論理学の論文になるだろう。そのあたりも機会があれば知っておきたいと思うが現状時間はない。

2017/7/3

講義の課題でG.E. Mooreの"External and Internal Relations"という論文読んでいる。まだ冒頭だけだが、関係(Relation)が事物に内在するのか外在するのかということが議論されている。外在するという立場では例えば「父親であること」という関係がA、Bという二人の人間に外在すると主張される。しかしこれではどちらがどちらの父親かがわからなくなってしまう。そこでMooreはAに「Bの父親である」という性質が内在されているという立場を出している。この立場では例えばAが新たにCの父親であることがわかるとAに「Cの父親である」という関係の性質が追加されることになる。個人的には固定的な対象がまずあってそこに関係の性質が追加されていくという考え方には反対したい。個的な対象は様々な性質を追加された後にそう呼ばれることで現れる。だから個的対象は性質を持ったり無くしたりしながらダイナミックに流動するものなのだ。ただこの考え方をMoore支持するかどうかはまだわからないので結論は出さないでおこう。

2017/7/2

理論的対象の実在性というか、存在論的コミットメントが存在論なのかどうかについて考えていた。理屈の上では例えば物理的な対象が実在しなくても物理学は理論としてはうまくいくだろう。理論上措定されることが実在することとイコールではないような気がする。しかしながらそのような意味での存在というものを語ることができるのだろうか。この点は何度も繰り返し考えているがいまだに答えが出そうにない。言語上で言及される対象以上の超越的な実在物を認識したり語ったりすることができるのか。こうやって「超越的な実在物」と言及することですでにそれは言語的な対象となっている。つまり哲学が言語の営みである以上、言語を超越した実在的対象を語ることができない。しかし言語によらない方法なら可能かもしれない。その意味で最近よく考えるのがショーペンハウアーの「意志」の認識で、あそこには論理的な証明がなくひたすら「直観」である。こうした直観を哲学だと扱ってしまっていいのかという点については議論が分かれると思う。そうした点にショーペンハウアーがあまりメインストリームの哲学者として扱われない所以があるのだろう。

2017/7/1

Fate/Grand Orderというソーシャルゲームを熱心にプレイしている。「アガルタの女」と言うストーリーが配信されて、個人的にはすごくいいと思ったのでいろいろ書いておきたい。まず最初に印象的だったのは、アガルタという空想上の場所に不夜城などの空想上の街、そして密告と拷問による完全監視社会といった空想的な社会理想が詰め込まれる入れ子状の構造である。こうしたメタ構造はシェヘラザードがすべての語り手であったという一層に加えて、このストーリー自体一つの物語であるという一層を追加することができる。こうした知性的な構造に対してシェヘラザードの動機がひたすらに「死にたくない」というプリミティブな感情であったという対比が美しい。またシェヘラザードは特殊な状況下で自身の生死をかけて物語った存在だが、物語自体は常に自身の生死をかけて自らを物語っている。物語というミームは受け手の興味を引けなければ忘れられ、それはミームの死を意味するからだ。私たちは物語にとってのシャフリヤール王なのだ。だから物語は悲劇であれ喜劇であれ私たちの魂に強く刻まれるように進化し続けている。この「アガルタの女」はそうしたある意味での悲劇を背負った物語たち、死後もなおサーヴァントとして語り直され続ける英霊という物語の、私たち読者に対する一つの反逆であると考えられるかもしれない。

2017/6/30

研究室でのフッサールについての発表を聞いていたら、現象的な現れから超越的(客観的)な対象を構築するという話が出ていて面白かった。現れは視点に相対的で、対象を様々な角度から見たときそれぞれの時点で別々の見え方をする。そのような現れから客観的な実在物を構築する作用があると考えられる。こういった統覚的な働きは、デネットが"From Bacteria to Bach and Back"で言っていた「デジタル化」という働きに近いかもしれない。時間上で変化し続ける現れからデジタルな、つまりそれであるか否か(all or nothing)な対象を取り出してくる働きである。こういった働きはフッサールに限らずカントなどいろいろな哲学者が述べているような感じがする。聞いていた発表ではそれぞれの現れから「見ている私」の位置を逆算して身体的な主観が出現するという話につながっていた。この点はハイデガーも同じような話をしていたのでそのルーツを発見した気分である。この「現れ」が先で「主観」が後という考え方は現象学のスタンダードなのだろう。デネットが"Sweet Dreams"で使っていた意識の名声モデルや反響モデルはこの「現れ」先行型のモデルだと言えると思う。

2017/6/29

研究室の先輩のマルブランシュの最善世界説についての論文を読んでいて、なんだかモヤモヤする。神による最善世界の創造プロセスを厳密に分析するという内容で非常にロジカルで素晴らしいのだが、結局何を目的としているのかわからない。神による世界創造を詳しく考えることで私たちの活動に何らかのメリットが存在するのだろうか。しかし神による創造という前提を認めた上でなら、神に創られた世界についての理解を深めるという意義があるのかもしれない。そうすると私が引っかかっているのは神の存在と創造を認めるという点なのだろうか。私は無神論を標榜しているから神について語ることが世界の理解につながるとは思わない。だからこのような論文を読んでもその意義を疑ってしまうとも考えられる。そうすると議論は(私が勝手にヤイヤイ言っているだけだが)研究の意義からして全くの平行線で、解決の見込みがない。

2017/6/27

研究発表のためにいろいろ書いていたら、なぜか世界そのものの認識というところが問題となってきた。例えば個別の対象の認識の総和として世界が考えられるかどうかは一つの問題である。ひとつのシステムを理解するためにはその構成要素を個別に理解するだけでは足りず、それらの相互関係まで視野に入れる必要がある。しかし個別のもの同士がどう関係するのかはを知るためには全体を俯瞰的に知っている必要がある。分節化されていない全体の直接的な認識は可能なのだろうか。ショーペンハウアーは世界そのもの=「意志」の直接的な認識ということを語っている。しかしそれは証明されない直観的なものであり、読んでいて少々不満があった。しかし言語的な認識はすでに分節化されているという考え方もある。なぜなら言語はすでに世界の一部分を切り取っているからだ。そうすると世界全体の認識は言語によらず行わなければならないということになる。言語の領分を超えるならそれは哲学の領域ではないかもしれない。