2017/6/9

今日は"Sex and Death"の第9章まで読み終わった。第9章では種のレベルでの選択についての議論が扱われている。ドーキンスに感化されて進化論を学び始めてそこからデネットに行った人間としてはあまり群淘汰とか種淘汰に同意する気持ちはなかった。個体のレベルでの淘汰についてずっと考えてきたので、以下の点が嫌である。すなわち、「種」というものは個体のように生活環がなく、構成要素の極端な増減がないまま変化していく(例外はあるけど)。それに対して個体は概ね生殖細胞という形で一つの細胞まで構成要素を減らして遺伝的プロセスを行っている。そうすると個体での複製というのと同じイメージで種の複製というものを考えるのが難しい。ただしだからと言って種淘汰において"Sex and Death"の筆者が述べていた進化論についての基本見解の三要素、つまり多様性、淘汰、遺伝というものが侵犯されているわけではない。だからこの嫌さは単に個体のレベルになれたことによる根拠のない直観ということになるかもしれない。そうすると問題は種淘汰というレベルでの説明が進化のプロセスを個体レベルではできない仕方でうまく説明してくれるかということになる。それは客観的な種というものが存在しないため、そのような説明がないなら個体のレベルで進化のプロセスを見るだけで十分だからだ。"Sex and Death"の筆者は「性」やあえて他の個体と別の方法をとって種を保存しようとする個体の説明において有用であると述べているが、そのどれも個体の進化レベルでも説明がつくような気がする。

2017/6/8

今日も"Sex and Death"を読んでいたら「種」の定義が話題になっていた。デネットはダーウィニズムを"essentialism"の否定だといって生物に内在的な「種族」という属性がついているという考え方を否定していた。"Sex and Death"でもこの筋の主張は認めつつ、しかし集団間での遺伝子のやりとりが比較的少ないなどの理由から種を定義できると主張されている。確かに遺伝子の流動が「ある」か「ない」かでの定義はできないが、スペクトラムの中である程度恣意的に線引きするという形でなら可能かもしれない。このように"essence"によって種を定義することを諦めれば道が開けてくる。これはおそらく全か無かの定義がデネットが"From Bacteria to Bach and Back"で言っていた「デジタル化」によるものだからなのだろう。私たちの認識を超越した世界はアナログ的で、デジタルな線引きは不可能である。そのことの認識によって定義はすべて恣意的だと認めることができ、そしてある程度の曖昧さを持った形で種というものを再定義できる。このようなプロセスは例えば禿山のパラドックスのような様々な問題の解決に使えそうだ。

2017/6/6

今日受けた講義と読んでいた"Sex and Death"で同時に「シンプソンのパラドックス」というものが登場したのでオオッとなった。簡単に言うと個々の部分では変数同士に正の相関があったとしても全体で見るとその変数同士に負の相関があったりすることを言う。"Sex and Death"ではこのパラドックス利他主義の進化についての議論に用いられていた。主に利己的な個体からなる集団と主に利他的な個体からなる集団があるとして、それぞれの内部では利己的な個体が勝利する。なぜなら利他的な個体群の中で「フリーライダー」となる利己的個体は丸儲けだからだ。しかしながら全個体の数で見ると利他的な個体がその数を増やしている、ということがあり得るのである。こうなると個体レベルでは利己的戦略が有利なように見えても個体群のレベルでは利他的戦略が適応的だということが可能となる。こういった利他的戦略の適応性の説明には例えばドーキンスの『利己的な遺伝子』では「繰り返し囚人ジレンマゲーム」というものが登場していたのでそれについては知っていたが、この「シンプソンのパラドックス」を用いた説明は新鮮だった。

2017/6/5

「超越」というのは一つのテクニカルタームなのだが、最近その意味がわかってきた気がする。哲学の文脈で超越したものというとき、それは何ものか、例えば認識の可能性の限界を超えているもののことを指す。その事について、ここ最近よく考えるのが言語を超越した対象についてはどう考えればいいのかという問題である。こうして今行い書き記している思考は結局のところ言語だといえる。そして言語は対象を持っているが、その対象は言語の外にある。だから言語で記述できる以上にその対象について思考すること、つまり言語を超越した対象を想定し議論することは果たして可能なのだろうか。つまり言語の外の対象を言語を超越した実在物として扱うことはそもそも言語的思考の領分を超えているのではないか。クワインのいう存在論的コミットメント以上に私たちが存在について関与する方法はないのかもしれない。ゆえに存在とは言語に相対的なものだということになる。物理学の言語には物理学の存在者、生物学の言語には生物学的な存在者、「民間心理学」には信念などの存在者が対応していて、それらの区分を超えた絶対的な存在というものは考えられない。要するに何が言いたいかというと、存在とはそれぞれの言語の対象としてしか考えられないのである。

2017/6/4

今日も"Sex and Death"を読んでいた。今日読んだ6章7章ではメンデル遺伝学を分子遺伝学に還元できるのかどうかという話題が扱われている。還元主義というものがかなり広い科学哲学的な視野から議論されていたので哲学的にも面白かった。特にそもそもなぜ還元する必要があるのかという点が興味深い。

But that is not to deny the significance of individual, close-grained actual sequence explanations. Moreover, a sense of reduction is involved here too: the ban on miracles.(Kim Sterelny, Paul E. Griffiths "Sex and Death: An Introduction to Philosophy of Biology" p141)

スケールの大きい事象をより詳細な、例えば物理学的な観点からを説明することで、そこに非物理的な奇跡といったものを想定することを防ぐことができる。このことによってスケールの異なった理論同士の間で交通関係が成立し、それらの共存が可能となっている。心身二元論に対する物理主義はメンタリスティックな語彙を物理的な用語に還元することだが、そのことによって心を物理学を超越して奇跡的なものと考える誤りを避けることができる。ただし心理的な語彙をすべて消去してしまうかどうかについては議論が分かれる。消去的物理主義という立場にあるのは私の知る限りではクワインチャーチランドで、デネットは反対に非消去的な物理主義をとるだろう。

2017/6/3

今日も"Sex and Death"を読んでいる。今日読んだ部分ではそもそも遺伝子とは何か、DNAだけが遺伝情報を伝達しているのかといった問題が扱われていた。まず前者について、複製の単位として遺伝子を定義するとその表現型との対応付けが難しくなり、反対に表現型から遺伝子を定義しようとするとそれがどのヌクレオチドの集団を指しているのがわからなくなる。なぜなら遺伝子が有機体を形成するプロセスは極めて複雑で、また一つの表現型を実現する遺伝子が一つとは限らないからだ。そして後者について、例えば新しい細胞膜はある細胞膜からしか作ることができないため、生殖細胞の細胞膜を通じてDNAによらない遺伝が行われている。私の考えでは遺伝子をDNA上の特定のヌクレオチド鎖に対応づけることは必ずしも必要ではない。遺伝子はデネットのいう"design stance"上で想定される対象であり、それが物理的な実在性を持つことが必要ではないからだ。つまり説明上の便利のために物理的な実在性を持たない(かもしれない)機能単位として遺伝子を考えることが否定されてしまうわけではない。これは遺伝子の反実在論とも言えるが、"physical stance"上の実在物ではなく"design stance"上の実在物だと考えるということなので、そう呼ぶかどうかは反実在論の定義によるということになる。またDNAのみが遺伝情報のキャリアではないという考え方では遺伝子の定義がかなり広く拡張されることになる。そのような広い定義の中には遺伝子をある種の情報のひとかたまりだと考えるというものもある。この定義はミームの定義に限りなく近い。そう考えるならミームが突飛な発想であるとは言えず、むしろ基本的な進化論の考え方から想定されるツールということになりそうだ。

2017/6/2

准教授に勧められた"Sex and Death: An Introduction to Philosophy of Biology"という本を読んでいる。今日読んだ部分ではドーキンスのいう"延長された表現型"が話題となっていた。この話題を見るたびに思うが、人間について"延長された表現型"というときそれは人間社会全体まで延長してしまう。あまりに複雑なそれをすべて生物学の観点から分析することはおそらく不可能だろう。"延長された表現型"によって私たちが為すべきことは、社会のような複雑なシステムも遺伝子の表現型として考えられるということを念頭に置いておくこと、つまりそれが「私たち」によるデザインだ、という述べることの意味を再考することだろう。反対に社会というシステムを具体的に分析するのは社会学の仕事であり、生物学の仕事ではない。生物学が物理学に還元されえないように、それぞれに異なったスケールの対象を持つ学問領域相互に還元されない。つまりドーキンスの"延長された表現型"を真面目に受け取ることは社会学が必要なくなるということを意味しないのだ。