2017/6/1

一周回って哲学をすることは人生にとって有用なのではないかという気持ちになっている。ある程度様々な哲学思想に触れておくと、新しい思想が侵入に入ってきた時それを相対化して考えることができる。思想は危険だ。思想は初め意識的思考に作用するだけだが、それはいつか習慣となり無意識の行動となる。ショーペンハウアーの思想を本気で受け取り実践するならその人が合理的思考の結果として自殺することになる。他にもインターネットでは中途半端な思想もどきのために思い悩んでいる人が多くいる。哲学をやっておくことでそのような思想の感染に対して抗体を持つことができるのだ。しかしながら今やっている哲学がすでに危険なウイルスであるという可能性は排除できない。哲学に感染したせいで大学院に進学したし。二年間が哲学に消費されることがすでに確定している。うーん……。

2017/5/31

ショーペンハウアーは自殺には二種類あるという。一つは欲望に従った自殺で、もう一つは欲望がすべて消えた結果としての自殺である。前者は例えば苦しい状況から逃れるための自殺で、後者は例えば即身成仏がそれに当たる。ショーペンハウアーは欲望は無限に尽きず欲望がある限り人は不満足という苦しみに襲われ続けるから、欲望を捨て去らなければならないと説いている。前者の自殺は単に欲望に従い欲望を肯定したものだから良くない自殺で、後者は欲望を否定する良い自殺なのだ。この欲望、彼の用語で言えば「意志」は個々人の欲求ではなく世界全体のダイナミズムを表現したものだから、欲望の否定の究極としての自殺は自己の終わりであると同時に世界の終わりでもある。しかし即身成仏した結果世界が消え去るというのはあまり直感的な結論とは言い難い。どちらにせよ自殺をすれば(自殺でなくとも死ねば)「私の見ている」世界は消えるだろう。この私が見ている世界(彼の用語では現象界)を超越した、つまり「意志」としての世界を想定できるのかどうかという点はやや疑わしい。ショーペンハウアー自身のこの点の記述も論証というより直感に訴えるもので成功しているかどうかは議論が分かれている。

2017/5/30

昨晩はスカイプ越しにクオリアがなぜ存在すると言えないのかを説明していたら4時になっていた。デネットが"Sweet Dreams"で述べていたことを簡単に言うと以下のようになる。例えばある写真を見ていてその一部が気づかないうちに変化しているとする。その時見ていた写真のクオリアは変化したのだろうか?変化したと答えると、クオリアの変化に気づけていないことになり、クオリア論者はクオリアに対する内的特権性を失ってしまう。反対に変化していない、つまり変化に気づいた時にクオリアが変化したのだと答えると、クオリアは私たちの認識に「与えられるもの」ではなく認識によって構成されるものとなってしまう。このようにクオリア論には色々と問題があるのだが、そもそもクオリアという語が指すものが統一的な何かなのかわからないという問題はある。論者によってクオリアとされるものの性質が微妙に異なっていることがあるし、クオリアの存在を証明するとされる様々な思考実験で導かれるものが一つのものなのかも疑わしい。その辺りを考えるならもう少しクオリアの存在を主張する人々の論をよく見てみる必要があるだろう。

2017/5/29

「私」は魂ではなく脳が紡ぎ出す物語の主語である。デネットはこのような「物語的重力の中心」としての自己という思想を『解明される意識』という本で述べていた。今期放送している「Re:CREATORS」というアニメでは物語の登場人物、「被造物」が作者たちの世界に現れてなんやかんやしていて、そのような点から考えると面白い。「被造物」たちは当初自分を構成する物語の文法に従って行動していたが、作者の世界に来て自身が「被造物」である事を自覚してからはその文脈から離れていく。この物語からの超越という事態はデネットの「物語的重力の中心」の話を考えるなら「私」たちにも当てはまると思う。単に「私」が物語上の主語なら、その振る舞いはすでに記述され「終わって」いる。つまり、言語的思考の上では私たちという存在者は常に決定論的なのだ。しかし私たちの行為はそれを超越している。なぜならそれは「これから」記述されるからだ。

2017/5/26

「人間とは何か」という問いを最近忘れていた気がする。高校生くらいの頃はよく考えていて、生物種としての人間は遺伝的情報によって定義されると思っていた。デネットは"Darwin's Dangerous Idea"でダーウィニズムは生物種がその種の「本質」によって定義されるという考え方を否定していると述べている。これを人間に当てはめるということをあまりしていなかったが、当然人間にも妥当する考え方だろう。人間という種もまた人間であるという「本質」を持っていることによって定義されない。むしろ人間は人間だと呼ばれるからこそ人間なのだ。この名辞はアフォーダンス環境下で学習されたり、他にも人間の脳には自分と近しい個体を認識する器官が備わっているかもしれない。さらに進めると、この人間という言葉は"manifest image"上の概念である。デネットのいうように"manifest image"上にあるということが存在論なのだと考えると、「人間」はその意味で存在すると言えるかもしれない。

2017/5/25

デネットの"Sweet Dreams"を読み終わった。最後の方の章では意識の「名声」モデルに追加して「反響」というモデルがクローズアップされる。意識は単に現れたものの名声によって構成されるのではなく、それら現れが反響することによって構成される。これは具体的にはエピソード記憶として様々な出来事が反芻されたりすることを指す。このように記憶が反響しながらその名声を競い合うことはおそらくミームの生存競争という事態を表しているのだろう。そしてこの反響=自己刺激によって人間は一回の出来事から記憶の反復学習によって習慣を形成することができる。さらにこの自己刺激の習慣自体が文化から得られたミームだとも述べられていた。

Let me sum up. I have ventured (1) the empirical hypothesis that our capacity to relive or rekindle contentful events is the most important feature of consciousness—indeed, as close to a defining feature of consciousness as we will ever find; and (2) the empirical hypothesis that this echoic capacity is due in large part to habits of self-stimulation that we pick up from human culture, that the Joycean machine in our brains is a virtual machine made of memes. (p186~187)

言語化するには大変すぎる記憶の細部なども、反響モデルにおいては自分の脳内で繁殖するミームとして扱うことができそうである。ただこの反響モデルとミームによるソフトウェアとしての意識というモデルがどう一致する(しない)のか自分の中であまり明らかでないのでもう少し考えてみたい。

2017/5/24

大学院の講義でクワインの話があったので聞いていたら気づいたことがあった。道徳の実在論/反実在論の論争に卒業論文で触れたのだが、どうして還元主義的な説明が道徳反実在論につながるのか、さらに言えば道徳を還元しないならなぜ実在論をとることになるのかがよくわかっていなかった。しかしクワインの"On what there is"の話を踏まえると以下のように考えられる。すなわち、道徳的な用語を用いた理論を展開することが、そのような道徳的価値のようなものに対して存在論的コミットメントを行うことになるのだ。反対に道徳を物理的な説明に還元することは道徳的価値の実在へのコミットを避けることなのである。これは志向的実在論/消去的唯物論の対立にも似たところがある。デネットなら道徳的価値の存在にはコミットしないけれども道徳的価値を用いた説明は、例えば時間の節約という意味で有用なので保存される(消去されない)と主張するだろう。道徳的価値が"is"の領域の説明を拒絶する"ought"の領域にあるなら、それはクオリアと同じで道徳についての科学的探究を阻害するものとなってしまう。