2017/3/28

今日もデネットの"From Bacteria to Bach"を読んでいる。今日読んだところではクロード・シャノン情報理論などが引き合いに出されながら、情報というものが論じられていた。デネットは構文論的な情報、すなわち脳神経の興奮パターンと表象などの意味論的な情報はそれぞれ独立に考えているようだ。意味論的な情報は複数の構文論的なコードによって実現できる。これは「多重実現」と呼ばれるもので、還元主義の批判に使われる考え方である。

Semantic information, the concept of information that we must start with, is remarkably independent of encodings, in the following sense: two or more observers can acquire the same semantic information from encounters that share no channel.(Dennett.D From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds 2017)

ただしデネットは還元主義を擁護する立場にある。彼は「良い還元主義」と「悪い還元主義」があると主張していて、消去的な還元を否定する。多重実現においても「トークン」の対応という形で、説明力の増えない一対一の還元は可能である。このような視点では意味論的な情報が消去的に還元されることはない。多重実点を認めながらのこのような還元は「良い還元主義」だということになるのだと思う。

2017/3/27

今日は何もしないことをしていた。具体的にはひたすらアニメを見ていた。アニメといえば4月から放送される『アリスと蔵六』のアニメが楽しみだ。『アリスと蔵六』を含めて、心身二元論的な直感からは「人間ではない」とされるものが人間性を得ていく、すなわち人間の定義が拡張される物語が好きだ。他に挙げるなら、『屍者の帝国』『BEATLESS』『アリス・イン・カレイドスピア』、少し違うかもしれないが『深紅の碑文』など。その他にもたくさんあると思う。どうして自分はこういった物語が好きなのだろう。一般に考えられる人間性の定義に反感を持っていて、それが崩壊する様が見たいのかもしれない。あるいは、「人間ではない」ものたちに移入した感情、見出した「志向姿勢」が正当だと認められて嬉しいとか。それとも、単に「人間ではない」ものたちにも人間性を認められる人間の姿が美しいと感じるのかもしれない。

2017/3/26

22歳の誕生日であった。どうにも年々誕生日を迎えるたびに、「(誕生日を迎えた年齢)年も生きてきて自分はまだこの程度なのか」という気持ちが増してくる。22歳の自分に何かしらの理想があったわけではないので、単に漠然とした焦りである。そして何に対して焦っているのかもわからない。

誕生日だからという特別なこともなく、デネットの"From Bacteria to Bach"を読み進めていた。人差し指の先が痛くてタイピングをあまりしたくないので、『存在と時間』の読書ノートはお休みしている。"From Bacteria to Bach"は第一部を読み終わった。第二部が長く、ここからが本番という感じがする。第一部は「理由(reason)」の進化(メタ進化論)や原核生物から人間に至るまでの「能力(competence)」と「理解(comprehention)」の進化という、"Darwin's Dangerous Idea"を発展させたようなテーマだった。第二部はミームを中心とした文化の進化が扱われるようである。楽しみだがやっぱり長い。ハイデガーの文章は説明が少ないのに対してデネットは説明が多すぎるきらいがある。中庸というアリストテレスの偉大な思想を知らないのだろうか。

2017/3/25

大暮維人/舞城王太郎の『バイオーグ・トリニティ』11巻が出ていたので読んだ。ここまで10巻では絵のかっこよさで読ませる感じだったが、ここに来て一気に謎が解決されて大盛り上がりしてしまった。ファンサービスなのだろうか、舞城王太郎の昔の本のタイトルの引用があったりして面白い。人間の人生という物語が相互に取り込み合う世界観はデネットの「物語的重力の中心としての自己」論を思わせたりしてそのような方面の考察も楽しそうだ。完結したらやってみよう。

大今良時の『不滅のあなたへ』2巻も気づかないうちに出ていたようなので読んだ。主人公の「フシ」(2巻でやっと名前がついた)は周囲世界の情報をコピーしながら「不滅」である。コピー、不滅という語から連想されるのはやはり自己複製子だ。この作品はこのフシが様々なものに出会ってそれをコピーしながら放浪するという形で進む。このことはミームが複製されて伝達されていくことを象徴していると解釈している。そして儚く死んでいく人間の形をコピーしていくフシの振る舞いが世界に影響を与えていく様子は、人間が死んでもミームは残り世界を変えていくということを表しているのだろう。この作品は"modern synthesis"という新しい永遠から見た「火の鳥」になっていくのだと予想している。

2017/3/24

卒業式に行った。学部は卒業するが大学院に進学するのでまた二年後に同じところで卒業式をすることになる。文学部長の言葉に曰く、コスプレをする「変な」学生がだんだん減ってきているらしい。私はコスプレをして目立つことで誰かに奇異な印象を与えることが「変な」人間であるとは思わない。ディスプレイ行為はむしろ人間の素朴な感情に基づいているのではないだろうか。人間の「変さ」というのは必ずしもこういった場における対外的な行為に現れるとは限らない。

卒業式の後には同窓会による祝賀会があり、そこでなぜか学生代表としてのスピーチを仰せつかった。思っていた以上人数がいてたじろいたが、やってみると特に緊張するということもない。私は卒業論文の発表などこういった人前で話す前にはかなり練習する方なので、それが良かったのかもしれない。人間の意識は習慣というプログラムによって構成されている。繰り返し練習することで意識そのものを事前にプログラミングしておくことになり、自動的に行動できるようになるのだろう。

2107/3/23

今日も『存在と時間』と"From Bacteria to Bach"を読んでいる。"From Bacteria to Bach"を読んでいて思ったことを書こうと思う。これまで何度かデネットが「理由」を私たちが見いだすものであると考えていると読解してきた。そうならば原因と結果のつながり、つまり因果律や自然法則も実在的なものではなく私たちの認識の形式ということになる。これはヒュームやカントの考え方でそれ自体新しいというわけではないが、デネットが"Elbow Room"という本で行っている決定論の批判に役立つ。その批判とは以下のようなものである。すなわち、私たちが決定論的な運命だと考えるものは私たちが世界に成り行きに対して持つ「予想」に過ぎず、そのような運命から離脱することは容易なのだ。なぜなら、私たちの予想はどこまで行っても完璧なものにはなりえないからである。これを読んだとき私はそれでも自然界が自然法則によって支配されているなら、私たちが認識できずとも運命は存在するのではないかと思った。しかし"From Bacteria to Bach"を読んだ感じとして、デネットはそもそも自然法則が私たちの認識上にしか存在しないと考えているようである。だから運命は最初から私たちの頭の中にしかないのだ。そしてそれは予想もしくは出来事に対して遡及的に構成される説明であり、世界の先行きを決定するものではない。

2017/3/22

酉島伝法『皆勤の徒』を読み終えた。圧倒的に異質な世界を漢字とルビを様々に組み合わせた造語の濁流で表現していくSFで久しぶりに脳神経が焼かれる感じがした。異質さという点で円城塔の『Boy's Surface』を読んだ体験に似ているし、グロテスクさという点で吉村萬壱の小説を読んでいる時のような気分になる。巻末に付された大森望の解説を読むまで時系列や出来事の正確な意味がつかめなかったのが悔しいような気がする。

デネットの"From Bacteria to Bach"に理解(comprehension)と能力(competence)の関係について書かれている部分があった。曰く、完全な機械を作るためにその作り方を知っている必要はない。進化のプロセスは「理解」という現象なしに我々人間のような生物を作り上げるからだ。ダーウィンチューリングもそのようなことを主張しているのである。

Here is another reason (is it how come or what for?): Both Darwin and Turing claim to have discovered something truly unsettling to a human mind— competence without comprehension.(Dennett.D From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds 2017)

アルバイトで数学などを教えるとき、とにかく体系的な理解を優先してしまう傾向があった。しかし"competence without comprehension"が可能なら数学の体系を理解していなくても反復演習だけで問題は解けてしまうのだ。このあたり少し自身の考え方を反省する必要を感じた。