2017/8/10

相も変わらず"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。筆者たちが考える正しい形而上学のやり方というのは以下のようなものであるらしい。

Any new metaphysical claim that is to be taken seriously should be motivated by, and only by, the service it would perform, if true, in showing how two or more specific scientific hypotheses jointly explain more than the sum of what is explained by the two hypotheses taken separately, where a ‘scientific hypothesis’ is understood as an hypothesis that is taken seriously by institutionally bona fide current science.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p30)

二つ以上の科学的仮説を結合してより説明力を高めるような形而上学的な主張こそが真剣に取り扱われるべきだそうだ。この後でこのパラグラフの内容をより深めていたが、興味深かったのが形而上学が科学の仮説を結合するということの意味だった。それはすなわち科学の変化に従って形而上学も形を変えていくということである。昔の哲学者はとにかく自分の思想が究極であって絶対的な真理だという書き方をしがちだが、この哲学観はそういった傲慢さを排除しているように思える。こういった傲慢さの背景には、世界というのは私たちの認識とは関わらずに確固として一定の性質をもって存在していて、一度それを正しく認識できたならそれこそが不変の真理の発見出るという考え方だろう。私たちは認識論的転回、言語論転回の後を生きている。それはつまり、私たちがアクセスできるのはあくまで私たちに認識された世界であったり私たちの言葉で表現された世界であるということだ。科学もまた人間が持つ世界の認識の仕方の一つ(科学的イメージ)であるからそれに基づいた形而上学があっても良いということなのだろう。この哲学観は一見哲学の特権性(そんなものがあるとして)を損なうようだが、メリットもある。それは科学が変化し続ける限り(その変化は今後も続いていくと思われる)哲学は終わらないということだ。それゆえに哲学者たちは完全な哲学的真理の発見によって飯の種を失うという心配がない。