2017/7/20

道徳の系譜』の『「善と悪」・「よいとわるい」』を読み終わった。いろいろな部分が本当に面白いのだが、哲学的に興味深かったのは13節だった。ニーチェ形而上学的には「力への意志」=ここでいう「作用」があるだけだから、「作用主体」というものはフィクションである。その作用主体という仮構が、弱者が自身が弱いことを主体の自由のもとで選択したものだと偽るために生み出されたと述べられている。そして自由があるからこそ強者は「弱くあること」もでき、その強さもまた自由のもとで選択される(という偽りが生まれる)。そこにおいて弱いことが道徳的な「功績」として扱われ、強いことに対して不道徳の烙印を押すことが可能となるのである。道徳的な主張も面白いが、ここで作用主体が「言語の誘惑」によって、つまり言語が作り出す誤謬として存在するという点がカント的で面白い。ニーチェもカントやショーペンハウアーといった哲学史の中で自分の思想を展開しているのだなあという発見があった。