2017/8/9

今日も"Every Thing Must Go"を読んでいた。各々の分析哲学者がどういった主張をしているかという点はまあいいとして筆者の科学の線引き問題についての見解がおもしろかった。科学は方法論や扱う主題によって科学なのではなく、科学を行う共同体の中でエラーをチェックされていることによって科学であるらしい。だから個々人がどのように科学を行っているかは関係なく、例えば論文誌に投稿して査読されたり学会に出て質疑応答をしたりしていることによって科学者であるのだ。それゆえに個人の認識論的な特権性や直観は科学を行う能力とはならない。

These points are connected to one another by the following claim: individuals are blessed with no epistemological anchor points, neither uninterpreted sense-data nor reliable hunches about what ‘stands to reason’. The epistemic supremacy of science rests on repeated iteration of institutional error filters.(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p29)

ここでは行為の本質ではなくそれがどのような状況によってなされるかによって科学と呼ばれるかどうかが決定される。ある意味で唯名論的とも言える発想かもしれない。例えば創造論なども学会や論文誌、研究室という機構においてなされているならそれは科学となる(実際にはそうではないが)。ここで重要なのは科学を行う主体として個人がそこまで重要でないという点である。現行の複雑な科学の全貌は個人の手にあまるものであり、それゆえに共同体全体として真理に近づいていくことが現在の科学のやり方なのだ。

2017/8/8

今日も"Every Thing Must Go"を読んでいる。分析形而上学がいかにダメなのかということが語られているパートで、その批判は以下のようになっている。分析形而上学は直観を形而上学の基礎として、例えば原子論のような思考にたどり着くがそれは現代の物理学とはフィットしない。現代の物理学、つまりは量子力学では例えば量子もつれのような明らかに直観に反した現象が考えられている。ゆえに分析形而上学はもともとの分析哲学的なモチベーションを離れて科学を無視する内容となっているのである。確かにそうだと思うが、形而上学が必ずしも現行の科学と共存可能なものである必要があるわけではないだろう。LadymanとRossとしては、科学に即した形而上学は科学の成功によって擁護されうるが、そうでない形而上学を擁護してくれる理論的成功というものはない、という点が形而上学に科学に対する目配せを要求する根拠であるようだ。

With respect to Lowe’s second claim, it is enough to point out that even if naturalism depends on metaphysical assumptions, the naturalist can argue that the metaphysical assumptions in question are vindicated by the success of science, by contrast with the metaphysical assumptions on which autonomous metaphysics is based which are not vindicated by the success of metaphysics since it can claim no such success.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p7)

2017/8/7

発表も終わったのでのびのびと研究しようと思ってJames LadymanとDon Rossの"Every Thing Must Go"という本を読んでいる。とりあえずは「分析形而上学(analytic metaphysics)」というものが批判されているのだがそもそも分析形而上学がなんなのかよくわからないのでそのあたりに注意して読んでいた。どうやら分析形而上学は以下のような流れで登場してきたらしい。まず論理実証主義があって「感覚与件」によって知識を基礎付ける立場が登場する。しかしクワイン全体論的な思想でその発想は否定されてしまう。そうなると一つの経験的な基礎によって諸科学を統一することができないので、クーンが考えるような学問同士の共訳不可能性が生じてしまう。つまりはそれぞれの個別科学で考えられるような世界観を統一することができなくなるのである。だがしかしセラーズの言うように哲学の目的は日常的な世界観と科学の描く世界観を統一することだから、哲学者としてはそこで満足できない。それでも経験的な基礎を求めることはできないので、直観に従って形而上学をやるというのが分析形而上学ということらしい。ここでは今までの分析哲学のように科学を重視する姿勢は存在していない。これがいいのか悪いのかまだわからないので読み進めていきたいと思う。

2017/8/1

ダークナイト』しか見たことがなかったのでネットフリックスで『バットマン・ビギンズ』から三部作を見ていた。『ダークナイト』だけ異色な作風で『バットマン・ビギンズ』『ダークナイト・ライジング』はヒーローアクションとして王道の作りだったように感じる。『ダークナイト・ライジング』の最後のシーン、ゴードンがバットマンの正体に気づくシーンが好きだった。核爆弾と心中しようとするバットマンに対してヒーローが必要だというゴードンに、「ヒーローとはあなたのような人だ」と返答するバットマン。そこで『バットマン・ビギンズ』で両親が殺されたブルース・ウェインに若い頃のゴードンが励ましの言葉をかけたシーンがフラッシュバックする。このシーンであの日からゴードンがブルース・ウェインにとってのヒーローだったことが明かされる。ゴードンが三部作を通して(正体を知らない人間の中で)唯一と言っていい通してバットマンの理解者だったのに対して、バットマンのゴードンに対する思いについてはあまり描写がなかった中でこのシーンが最後にやってくるので大変感動した。

2017/7/31

なんとなく見ていなかった『アリスと蔵六』のアニメの最後3話を見た。「ワンダーランド」が現実世界の物理法則を模倣して新しい宇宙になるという話で、宇宙進化論を思い出していた。宇宙進化論というのは、宇宙がそれぞれ少しずつ物理法則の異なった子供の宇宙を生み出してそれらの世代交代によって宇宙が進化していくという考え方らしい。物理法則の差異によってより子供の生み出しやすい(?)宇宙ができればその適応度が高いということになる。「ワンダーランド」が世界の物理法則を真似ている、つまり複製しているならそれは宇宙が子供を生んでいるプロセスである。しかしこの宇宙進化論というのも話のスケールが大きすぎるというか、別の宇宙なんて観測不可能だしまさに"Just so story"だと思う。というより宇宙に物理法則が備わっている、もしくは法則という形をしていなくてもなんらかの性質が備わっているという点も議論の余地のある想定なのではないだろうか。

2017/7/30

ネタバレになるといけないので名前は伏せるがある小説で「遺伝子の保存という観点から見て親殺しは優れた行為である」という主張を見つけた。つまり親の遺伝子は子供という若い個体に複製されたのだから親のものはもう必要ないということらしい。この考え方は誤りなのでそのことについて書きたいと思う。仮に親から子へと遺伝子が完全に複製されるとしても、特に作中で言われるように父親の場合それが新たに複製される可能性は残っている。なぜなら子供を作った後でも親には生殖能力がまだ残されているからである。だから親を殺すことは自分と同じ遺伝子が複製される可能性を狭めることにつながり、遺伝子の保存という観点からは明らかに誤った行動である。次に親から子への遺伝子の複製は減数分裂によって完全なコピーとはならない。それは父親と母親から半分ずつ受け継ぐもので、さらにその過程で様々な変化を被っている。それゆえに例えば作中のように父親が自分の遺伝子の単に古いだけのコピーであるという主張は間違いである。以上の点から上記の命題は誤りなのだが、それにしても仮にそれが正しいなら自然界で親殺しは横行しているはずであり、直感的にも違和感があるだろう。まあ小説内の薀蓄に真面目に反論するのもナンセンスだと言われればその通りなのだけれど……。

2017/7/26

今日もひたすら発表のためにスライドを作り続けていて大体出来上がった。今回英語でスライドを作っていたけれど、英単語をミスタイプする(というか綴りが怪しい)たびに校正機能が働くので大変便利であった。それと同時に私が英文を書いているのか校正機能が英文を書いているのかだんだん曖昧になってくるような気がする。これが進んでいくと例えば神林長平『言壺』の「ワーカム」とかの発想へと至るのだろう。しかし日本語の校正ソフトはあまり干渉してくる感じがないのに、英語だと干渉が如実に感じられるのは言語の複雑さの違いなのだろうか。日本語では綴りに対して漢字がいくつも考えられるので校正するのが難しそうだが、英語は綴りが変換されないので間違いを即座に修正できてしまう。ふと思いついてここまでの文章を日本語を校正してくれるサイトに入力してみたら「綴り」という字が難読であるとかところどころ助詞が不足しているとか指摘してくれて面白い。しかし入力した文章に関係ないアルファベッドを混ぜ込んでみても反応しないのでそのあたりは難しいようだ。反対に英語の校正ソフトはかなり進んでいるので、誰が文章を書いているのかわからなくなる現象は英語圏の方が深刻なのかもしれない。ダグラス・ホフスタッターが自動校正機能に怒り心頭であるらしいという話をどこかで聞いたことがある。