2017/7/6

インターネットで規範や政治的な正しさなどを他者に要求している人のモチベーションがよくわからない。ここでは道徳的な「〜すべき」という言明は、同じ規範を共有することでゲーム理論的な社会の全体利益を得るためのものだと考える。その場合同じゲーム、つまり共同作業に従事する予定のない人間に対して規範を共有しようとする理由がない。だからそれは合理的な規範共有のための機能のバグというか誤った使用なのではないだろうか。しかし倫理を一つのミームと捉えると、それが人間の利益のために存在しているとは限らないと言える。協働予定のない人間への規範ミームの押し付けは単に規範の生存のためとも考えられるのだ。別の観点から言えば他者に押し付けたくなるような規範ミームは多くの人の脳内に住み着くことになる。またある社会で人間の適応度を高めていたミームが現在の社会では適応度に関わらない(または適応度を下げる)ようになっても、それが単に広がりやすいからという理由で広がっていくことは十分にあり得る。ただこう主張することで規範の価値を貶めてみても、私たち有限の思考能力しか持たず他者の振る舞いを完璧には予想できない私たちは、規範の共有によって協調する他にない。これこそ人間というか生物の持つ悲劇ではないだろうか。

2017/7/5

大学に行ったり寝たりしていたら1日が終わったので大学でのことを書く。カントの『純粋理性批判』の購読演習をとっていて、今は「純粋理性の誤謬推理」あたりを読んでいる。"ich denke"="cogito"つまり「私は考える」という命題が、カント以前の形而上学の一部門である合理的心理学においては誤って主語とされて超越論的述語(カテゴリー)を付与されることが問題となっていた。誤って主語とされるというのはカントにとっての"ich denke"は「超越論的統覚」でありすべてのカテゴリーよりも一段階メタ的なものであって、カテゴリー的な判断の主語とはならないからである。このことによって"ich, als denkend"つまり「考える私」=魂を主語として四つの判断が生まれる。

  1. 魂は実体である
  2. 魂は質的に単純である
  3. 魂は数的に単一である
  4. 魂は空間内の対象と関係を持つことができる

これら全てはカントにとって純粋理性の誤謬推理ということになるのだと思う。一つ目は魂に実体性を与えるもので心身二元論の基礎をなす。二つ目は魂はそれ以上分割できないという主張で、例えば脳のモジュールという単位に魂を分割還元することができなくなる。三つ目は魂の連続性を含意するだろう。魂が数的に単一ならある瞬間𝑡₁における魂と𝑡₂におけるそれは同じものということになるだろうからである。四つ目においてはデカルト以降のさまざまな哲学者が悩んだ心身二元論の問題が浮き彫りになる。延長(物理的対象)も実体であるということから、一つ目と四つ目の両立ということが困難であるという点が心身二元論批判の核をなしている。

2017/7/4

今日も引き続きMooreの"External and Internal Relations"を読んでいる。内容というか文章の話になるが、単語としてはそこまで難しいものが使われているわけではないのに対して文章がかなり複雑で難しい。例えば"I think"の副詞節がやたら入ったり関係代名詞節が一文に3つくらいあったりする。他にも二重否定の文が多い。英文の二重否定はかなり曲者で、日本語なら「〜ではないわけではない」と文末でそれとわかるのだが英文の場合"not"などの否定句が文中の散りばめられていて大変わかりづらい。英文を読む際は否定語に注意せよと最近よく教えているのはこの辺りが根拠である。反対に前読んだ"Sex and Death"は生物学の哲学の本ということもあって生物学の用語が頻出して単語は難しいが、文章としては平易であった。大学入試で意地悪な問題を作るとしたらおそらくMooreの文章のようなものが出るのだろう。"External and Internal Relations"の内容の話に戻ると、最終的に話がややこしくなってきたので形式論理を使って証明しようという話になってきた。まさに分析哲学という感じである。現状古典論理、一階の述語論理、様相論理くらいがわかっていればこうした論文を読むのに問題はなさそうだと感じている。逆に高階の述語論理や非古典論理が出てくるような論文はもはや論理学の論文になるだろう。そのあたりも機会があれば知っておきたいと思うが現状時間はない。

2017/7/3

講義の課題でG.E. Mooreの"External and Internal Relations"という論文読んでいる。まだ冒頭だけだが、関係(Relation)が事物に内在するのか外在するのかということが議論されている。外在するという立場では例えば「父親であること」という関係がA、Bという二人の人間に外在すると主張される。しかしこれではどちらがどちらの父親かがわからなくなってしまう。そこでMooreはAに「Bの父親である」という性質が内在されているという立場を出している。この立場では例えばAが新たにCの父親であることがわかるとAに「Cの父親である」という関係の性質が追加されることになる。個人的には固定的な対象がまずあってそこに関係の性質が追加されていくという考え方には反対したい。個的な対象は様々な性質を追加された後にそう呼ばれることで現れる。だから個的対象は性質を持ったり無くしたりしながらダイナミックに流動するものなのだ。ただこの考え方をMoore支持するかどうかはまだわからないので結論は出さないでおこう。

2017/7/2

理論的対象の実在性というか、存在論的コミットメントが存在論なのかどうかについて考えていた。理屈の上では例えば物理的な対象が実在しなくても物理学は理論としてはうまくいくだろう。理論上措定されることが実在することとイコールではないような気がする。しかしながらそのような意味での存在というものを語ることができるのだろうか。この点は何度も繰り返し考えているがいまだに答えが出そうにない。言語上で言及される対象以上の超越的な実在物を認識したり語ったりすることができるのか。こうやって「超越的な実在物」と言及することですでにそれは言語的な対象となっている。つまり哲学が言語の営みである以上、言語を超越した実在的対象を語ることができない。しかし言語によらない方法なら可能かもしれない。その意味で最近よく考えるのがショーペンハウアーの「意志」の認識で、あそこには論理的な証明がなくひたすら「直観」である。こうした直観を哲学だと扱ってしまっていいのかという点については議論が分かれると思う。そうした点にショーペンハウアーがあまりメインストリームの哲学者として扱われない所以があるのだろう。

2017/7/1

Fate/Grand Orderというソーシャルゲームを熱心にプレイしている。「アガルタの女」と言うストーリーが配信されて、個人的にはすごくいいと思ったのでいろいろ書いておきたい。まず最初に印象的だったのは、アガルタという空想上の場所に不夜城などの空想上の街、そして密告と拷問による完全監視社会といった空想的な社会理想が詰め込まれる入れ子状の構造である。こうしたメタ構造はシェヘラザードがすべての語り手であったという一層に加えて、このストーリー自体一つの物語であるという一層を追加することができる。こうした知性的な構造に対してシェヘラザードの動機がひたすらに「死にたくない」というプリミティブな感情であったという対比が美しい。またシェヘラザードは特殊な状況下で自身の生死をかけて物語った存在だが、物語自体は常に自身の生死をかけて自らを物語っている。物語というミームは受け手の興味を引けなければ忘れられ、それはミームの死を意味するからだ。私たちは物語にとってのシャフリヤール王なのだ。だから物語は悲劇であれ喜劇であれ私たちの魂に強く刻まれるように進化し続けている。この「アガルタの女」はそうしたある意味での悲劇を背負った物語たち、死後もなおサーヴァントとして語り直され続ける英霊という物語の、私たち読者に対する一つの反逆であると考えられるかもしれない。

2017/6/30

研究室でのフッサールについての発表を聞いていたら、現象的な現れから超越的(客観的)な対象を構築するという話が出ていて面白かった。現れは視点に相対的で、対象を様々な角度から見たときそれぞれの時点で別々の見え方をする。そのような現れから客観的な実在物を構築する作用があると考えられる。こういった統覚的な働きは、デネットが"From Bacteria to Bach and Back"で言っていた「デジタル化」という働きに近いかもしれない。時間上で変化し続ける現れからデジタルな、つまりそれであるか否か(all or nothing)な対象を取り出してくる働きである。こういった働きはフッサールに限らずカントなどいろいろな哲学者が述べているような感じがする。聞いていた発表ではそれぞれの現れから「見ている私」の位置を逆算して身体的な主観が出現するという話につながっていた。この点はハイデガーも同じような話をしていたのでそのルーツを発見した気分である。この「現れ」が先で「主観」が後という考え方は現象学のスタンダードなのだろう。デネットが"Sweet Dreams"で使っていた意識の名声モデルや反響モデルはこの「現れ」先行型のモデルだと言えると思う。