2017/7/2

理論的対象の実在性というか、存在論的コミットメントが存在論なのかどうかについて考えていた。理屈の上では例えば物理的な対象が実在しなくても物理学は理論としてはうまくいくだろう。理論上措定されることが実在することとイコールではないような気がする。しかしながらそのような意味での存在というものを語ることができるのだろうか。この点は何度も繰り返し考えているがいまだに答えが出そうにない。言語上で言及される対象以上の超越的な実在物を認識したり語ったりすることができるのか。こうやって「超越的な実在物」と言及することですでにそれは言語的な対象となっている。つまり哲学が言語の営みである以上、言語を超越した実在的対象を語ることができない。しかし言語によらない方法なら可能かもしれない。その意味で最近よく考えるのがショーペンハウアーの「意志」の認識で、あそこには論理的な証明がなくひたすら「直観」である。こうした直観を哲学だと扱ってしまっていいのかという点については議論が分かれると思う。そうした点にショーペンハウアーがあまりメインストリームの哲学者として扱われない所以があるのだろう。

2017/7/1

Fate/Grand Orderというソーシャルゲームを熱心にプレイしている。「アガルタの女」と言うストーリーが配信されて、個人的にはすごくいいと思ったのでいろいろ書いておきたい。まず最初に印象的だったのは、アガルタという空想上の場所に不夜城などの空想上の街、そして密告と拷問による完全監視社会といった空想的な社会理想が詰め込まれる入れ子状の構造である。こうしたメタ構造はシェヘラザードがすべての語り手であったという一層に加えて、このストーリー自体一つの物語であるという一層を追加することができる。こうした知性的な構造に対してシェヘラザードの動機がひたすらに「死にたくない」というプリミティブな感情であったという対比が美しい。またシェヘラザードは特殊な状況下で自身の生死をかけて物語った存在だが、物語自体は常に自身の生死をかけて自らを物語っている。物語というミームは受け手の興味を引けなければ忘れられ、それはミームの死を意味するからだ。私たちは物語にとってのシャフリヤール王なのだ。だから物語は悲劇であれ喜劇であれ私たちの魂に強く刻まれるように進化し続けている。この「アガルタの女」はそうしたある意味での悲劇を背負った物語たち、死後もなおサーヴァントとして語り直され続ける英霊という物語の、私たち読者に対する一つの反逆であると考えられるかもしれない。

2017/6/30

研究室でのフッサールについての発表を聞いていたら、現象的な現れから超越的(客観的)な対象を構築するという話が出ていて面白かった。現れは視点に相対的で、対象を様々な角度から見たときそれぞれの時点で別々の見え方をする。そのような現れから客観的な実在物を構築する作用があると考えられる。こういった統覚的な働きは、デネットが"From Bacteria to Bach and Back"で言っていた「デジタル化」という働きに近いかもしれない。時間上で変化し続ける現れからデジタルな、つまりそれであるか否か(all or nothing)な対象を取り出してくる働きである。こういった働きはフッサールに限らずカントなどいろいろな哲学者が述べているような感じがする。聞いていた発表ではそれぞれの現れから「見ている私」の位置を逆算して身体的な主観が出現するという話につながっていた。この点はハイデガーも同じような話をしていたのでそのルーツを発見した気分である。この「現れ」が先で「主観」が後という考え方は現象学のスタンダードなのだろう。デネットが"Sweet Dreams"で使っていた意識の名声モデルや反響モデルはこの「現れ」先行型のモデルだと言えると思う。

2017/6/29

研究室の先輩のマルブランシュの最善世界説についての論文を読んでいて、なんだかモヤモヤする。神による最善世界の創造プロセスを厳密に分析するという内容で非常にロジカルで素晴らしいのだが、結局何を目的としているのかわからない。神による世界創造を詳しく考えることで私たちの活動に何らかのメリットが存在するのだろうか。しかし神による創造という前提を認めた上でなら、神に創られた世界についての理解を深めるという意義があるのかもしれない。そうすると私が引っかかっているのは神の存在と創造を認めるという点なのだろうか。私は無神論を標榜しているから神について語ることが世界の理解につながるとは思わない。だからこのような論文を読んでもその意義を疑ってしまうとも考えられる。そうすると議論は(私が勝手にヤイヤイ言っているだけだが)研究の意義からして全くの平行線で、解決の見込みがない。

2017/6/27

研究発表のためにいろいろ書いていたら、なぜか世界そのものの認識というところが問題となってきた。例えば個別の対象の認識の総和として世界が考えられるかどうかは一つの問題である。ひとつのシステムを理解するためにはその構成要素を個別に理解するだけでは足りず、それらの相互関係まで視野に入れる必要がある。しかし個別のもの同士がどう関係するのかはを知るためには全体を俯瞰的に知っている必要がある。分節化されていない全体の直接的な認識は可能なのだろうか。ショーペンハウアーは世界そのもの=「意志」の直接的な認識ということを語っている。しかしそれは証明されない直観的なものであり、読んでいて少々不満があった。しかし言語的な認識はすでに分節化されているという考え方もある。なぜなら言語はすでに世界の一部分を切り取っているからだ。そうすると世界全体の認識は言語によらず行わなければならないということになる。言語の領分を超えるならそれは哲学の領域ではないかもしれない。

2017/6/26

デネットの「会話ストッパー」としての道徳という考え方が気になっている。"Darwin's Dangerous Idea"では以下のように述べられている。

Now, how shall we avert a cacophony of colleagues? We need some conversation-stoppers. In addition to our timely and appropriate generators of considerations, we need consideration-generator-squelchers. We need some ploys that will arbitrarily terminate reflections and disquisitions by our colleagues, and cut off debate independently of the specific content of current debate.

Dennett, Daniel C.. Darwin's Dangerous Idea: Evolution and the Meaning of Life (p.506). Simon & Schuster. Kindle 版.

単に自分一人が行動する際に考えこみすぎて時宜を逃さないようにするための「会話ストッパー」だと思っていたが読み返してみると微妙に違うような気がする。他者と協調戦略をとる際に互いの行動を予想できるようにすることが「会話ストッパー」としての道徳なのではないだろうか。「会話ストッパー」がなければ相手の裏切りを常に考え込みすぎてしまう。相手が道徳的に振る舞うと確信できていれば裏切られる心配なく協調的な行動をとることができるということを言いたいのだろう。これもある意味で適応主義的な思考と言える。道徳は一つのミームでこのような意味で人間の適応度を高める共生的なものである。しかしadaptationが常にadaptiveではないことを考えると、現在の人間に利益にならない道徳が生き残っていることも考えられる。だからこそ倫理学というものは常に道徳を疑い正当化の根拠を見つけようとするのだろう。

2017/6/25

ケン・リュウの『母の記憶に』に収録されている「パーフェクト・マッチ」という短編が面白かった。生活を支援するAI(「ティリー」)による支配に争うという形式のよくあるディストピアSFだがティリーが機械学習を用いていたりして最近の感じになっている。特に興味深かったのが主人公サイがティリーの助言の「後に」自分の嗜好を認識するところだった。

ティリーはただ、ほしがっていることをサイ自身でもわかっていなかったことを見つけ出しただけなのだろうか?それともその考えをサイの頭に押しこんだのだろうか?
(p 255)

言語的認識が決断の後に生じるという見解を示す実験もある。ならば趣味判断が言語化される前に言語による助言を差し込めば、それが自己認識に取って代わることも可能かもしれない。そして言語的な自己認識は振る舞いへとフィードバックされていき、趣味嗜好や習慣、無意識の行動を形成していくのである。

他にもティリーによる支配から脱しようとする主人公たちにAIの管理会社の社長が言っていたことが面白い。

われわれは今やサイボーグ民族なんだ。ずっと前にわれわれの精神をエレクトロニクスの領域に拡張しはじめた、そしてもはやわれわれ自身のすべてを自分の脳髄に無理やりもどすのは不可能なんだ。
(p 279)

前に読んだ"The Master Algorithm: How the Quest for the Ultimate Learning Machine Will Remake Our World"という本で同じようなことが述べれられていた。

As technology progresses, an ever more intimate mix of human and machine takes shape. You’re hungry; Yelp suggests some good restaurants. You pick one; GPS gives you directions. You drive; car electronics does the low-level control. We are all cyborgs already. The real story of automation is not what it replaces but what it enables.
(ページ277).

「人間」というものをもはやタンパク質の塊と定義することはできないのかもしれない。機械は「延長された表現型」として私たちの一部であり、その中に人工知能が加わりつつあるのだろう。