2017/4/25

デネットが"From Bacteria to Bach and Bach"で参照されていたPedro Domingosの "The Master Algorithm: How the Quest for the Ultimate Learning Machine Will Remake Our World"を読んでいる。機械学習の導入本で様々なアプローチが紹介されているようだ。第1章は"Machine-Learning Revolution"ということで社会に対する影響が解説される。その中で面白かったのが機械学習の利用を農業に例える下りだった。

Learning algorithms are the seeds, data is the soil, and the learned programs are the grown plants. The machine-learning expert is like a farmer, sowing the seeds, irrigating and fertilizing the soil, and keeping an eye on the health of the crop but otherwise staying out of the way.

(Pedro Domingos "The Master Algorithm: How the Quest for the Ultimate Learning Machine Will Remake Our World" p7)

機械学習は細部まで理解した上で設計されるAIではない。だから機械学習からの出力を待っているとき農作物の収穫を待つような気分になるのだろう。人工知能の技術を発展させていった結果産業が一周回って農業に戻ってくるのはかなり面白いと思う。

2017/4/24

セラーズ『経験論と心の哲学』を読み終わった。ロバート・ブランダムのコメンタリーを読み終えてこの本もようやく終わりかと思ったら訳者によるコメンタリーが始まったのでびっくりしたが、ブランダムのコメンタリーよりわかりやすかったので許した。訳者によるコメンタリーを読んで、本文ではよくわからなかった「心理的唯名論」と言う概念が理解できた。心理的唯名論とは意識活動がすべて言語によって行われるという主張のことらしい。デネットの意識=ミームによるユーザーインタフェースと言う主張とだいたい軌を一にしている。このような主張を読むたびに言語的でない思考は存在しないのだろうかと考えていた。セラーズは感覚と思考を同じカテゴリーに帰することを批判している。私の違和感は感覚と思考を同じカテゴリーに入れてしまうことからきていたのかもしれない。意識は人間の活動をとらえる一つの言語的枠組み、理論言語で、その理論は言語的共同体内での実践的使用がルーツとなっている。だからこそ意識は伝達可能なもの、つまりはミームによって構成されているのだ。反対に言えば、実践的役割を持たない内的な声というものが進化してくる理由がない。自身の状態を知るための意識は他者に伝達可能な形でしか進化してこないのである。

2017/4/23

セラーズ『経験論と心の哲学』のコメンタリーを読んでいる。デカルトが主張するような感覚の直接性、つまり「〜と見える」という文が誤ることが無いという性質についての解説が面白かった。残念ながら本編を読んでいても理解できなかったがコメンタリーを読んで初めて理解できたので、読み飛ばさなくてよかったと思う。結論から言うと「〜と見える」という文が不可謬なのは、そのような文を主張するときにその正当性にコミットメントをしていないからなのである。そもそも正当性を主張していないのだから反証されるはずがない。このような「〜と見える」の文によって知識を基礎づけること、つまり所与の神話は全面的に崩壊することになる。信念の正当性はその信念を正当化の系列としての「論理空間」に置き入れることによってなされる。ゆえにある信念を主張しコミットすることは、その信念によって新しい他の信念を正当化する責任を負うことなのである。分析的な認識論の話を読んでいたはずが責任や義務といった規範的な用語が出てくるのが面白い。しかしながらある部分では「自然主義的誤謬」といったことを認めながらせ「正当化すべき」といった当為の主張を行うのは大丈夫なのだろうか。単に信念へのコミットメントは他の信念を正当化しようという意志の現れだといってもいいような気がする。

2017/4/22

セラーズの『経験論と心の哲学』をコメンタリーを除いて読み終わった。特に面白かったのが「所与の神話」を破壊するための神話と筆者が呼んでいる部分で、そこでは内的思考や感覚が観察可能な行動をモデル化したものと考えられる。まず第一に存在するのは他者や自分の観察可能な発話行為である。他者は第一に思考を声に出しながら行為するものとして現れる。そしてそのような行為についての理論が組みあがると、観察可能な発話の伴わない行為も同じモデルで捉えたいという欲求が生じてくる。このようなモデルは最初は他者を対象としていたが、それが自己を対象とし始めると内的思考そのものとして現れるのである。内的感覚についても同様の説明がなされる。この説明は内的思考を、内的なものとして間主観性を確保しているというメリットがある。

他方でこの説明をミームの視点から見たのがデネットの説明だと言えそうだ。ミームから見る利点はこのようなプロセスを私たちによる構成というより、理論(ミーム)自身による構成だと捉えられるという点である。単に観察可能な発話を伴う行為にのみ用いられるよりそれを伴わない行為も説明するモデルとなれば、ミームとしても適応度が高まっていると言えるだろう。

2017/4/21

研究室でフッサールがどこに実在性を認めていたかの話をしていて、そういえばデネットは実在や実体というものをどう考えているのか気になった。"From Bacteria to Bach and Back"での記述によると"manifest image"という世界像上に現れてくるものが"ontology"の対象であると考えいているようだ。すなわち「存在する」というのは"manifest image"上の一つのカテゴリーであって、いわゆる唯名論と捉えることもできそうである。そうなると「魂」「世界」という二元論的な対象が("manifest image"上に)「存在する」と主張することも可能であるような気がする。デネットが二元論を批判するときの論点は因果関係の断絶であり、その実在性を問題とはしていないように見える。と言うより"ontology"が"manifest image"上に現れるものというだけの意味ならば、それは究極の実体などというものを問題の対象とできないのではないか。デネットは意識的思考の能力をそこまで大それたものとは考えていないのではないだろうか。意識は単に脳内のモジュール間のユーザーインターフェースであり、それは単に実践上の役割を持っているだけでそのような存在論的な思惟を可能とするものではないとも考えられる。各々が信じる実在的対象を前提としてニッチ内での活動がうまくいくなら込み入った存在論的議論は必要ないのかもしれない。

2017/4/20

デネットがセラーズの"manifest image"という用語を連発するのでどんなもんかいなと研究室にあったセラーズの『経験論と心の哲学』を読んでいる。今のところよくわからないがとにかく分析哲学だなあという感じがする。聞きかじった知識によるとこの本は「赤色」などの感覚与件(センスデータ)が知識を基礎づけるという考え方を「所与の神話」と呼んで批判しているようだ。これも思いつきだが、このセンスデータという問題はクオリアという問題と同じものなのではないだろうか。どちらも物理的対象とは別の感覚対象と言えるものを想定している。所与の神話が崩壊して純粋な感覚対象が命題的な知識を形成するということがないなら、同様にクオリアも知識とは関わらないこととなる。このようなクオリア批判はデネットの"Consciousness Explained"にもあった。このように実践的な用途のないクオリアを経験する脳の機能が進化する理由は存在しないのである。

2017/4/19

デネットの"From Bacteria to Bach and Back"を読み終わった。過去の著作の内容を"manifest image"、パターン認識によるデジタル化、人間によるインテリジェント・デザインといった新しい用語で再構成しながら、機械学習などの最近のトピックも論じるという内容であった。特に技術論に焦点が当たっていたように思う。タイトルの"and Back"の部分はインテリジェント・デザインから機械学習遺伝的アルゴリズムなどを用いた、我々が「理解」することなく用いる技術、すなわちポスト-インテリジェント・デザインへと回帰するということを指しているのだろう。

ところでこれは単なる思いつきだが"free floating rationals"は人間以外、例えば進化のプロセスそのものが認識する「理由」なのではないだろうか。

Evolution by natural selection can mindlessly uncover the reasons without reasoners, the free-floating rationales that explain why the parts of living things are arranged as they are, answering both questions: How come? and What for?

(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.411). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

意識はミームによるユーザーインターフェースで、理由を認識する「私」はその上に現れるだけのものである。"free floating rationals"の存在を疑うこれまでの思考はまだ心身二元論的な、つまりデカルト的重力に引っ張られたものであったかもしれない。すなわち言語上の「理由空間」にしても確固とした「思考する我」が理由の認識者であるわけではない。