2017/4/7

世界は本来はアナログなものであり、言葉はそれをデジタルに切り取ってしまうらしい。言葉の対象は物体そのものとは限らず、言葉自身もその対象に含まれる。そうすると、アナログ的な差異を切り捨ててできた言葉をさらにデジタル化することになる。デジタル化をある意味での曖昧化と捉えるなら、言語というのは無限の曖昧さを畳み込んだ構造なのだ。だから、言語によって何かを表現することは原理上批判を免れ得ない。アナログなままの世界を表現する言語はありえないから、問題はどのレベルまでの曖昧さを許容するかということになる。

2017/4/6

我らが京大哲学研究室には今の教授が職について以来准教授がいなかったのだが、今年から准教授が就任されるらしい。奇しくも進化論の哲学や統計の哲学をやっている方らしく、私がやろうと思っていた分野と被っている。楽しみなような、恐ろしいような。

あまり論文をバカスカ読むという勉強の仕方をしてこなかったのが良くない気がしている。1つの思想を理解するのに時間をかけるあまり、様々な人の立場を知っておくということができていないのではないか。1日何本とか決めて読んでいこうかな。しかし、自分の場合は論文に当たっていく以前の基礎知識が足りてない気がする。そんなことを言っていたら一生基礎知識が足りないと言い続けることになりそうだが。何にせよ、心の哲学など今現在活発に論争されているジャンルをやるなら時流に追いつく必要があるだろう。うーん、明日から、いや明後日からやるぞ。やります。

2017/4/5

修士論文に向けて研究の目的というものを考えている。哲学がやりたいからやっているくらいの適当さで大学院に入ったが、研究計画書やらに書く必要があるので明確化しないといけない。プラグマティズムという考え方を採用するなら、哲学的な真実も人間の実際上の目的のためにあってよいことになる。哲学もまた進化のプロセスの中で生まれた人間の行動として存在する以上、進化上の何らかの意味を持っているはずだ。すなわち、哲学も生存競争のためのデザインだと言えるだろう。だから、この立場での哲学をすることの目的は適応度を上げることなのだ。そこで問題は、誰の適応度を上げるのか?ということである。第一に考えられるのは遺伝子だ。しかし哲学をやることで生殖に繋がったという事例はあまり見ない。すると第二に考えられるのがミームである。哲学をすることで脳内のミームをよりよく伝達することができるようになる、例えば明晰な思考はより伝わりやすいということはあり得そうだ。他にも単に哲学的な思想そのものを伝えるために哲学をするということも哲学の目的として考えられるかもしれない。そうなると研究計画書にはどう書けばいいのだろう?「この研究の目的はこの研究を伝達することです」とか?流石にちょっとふざけているのかと思われそうだ。

2017/4/4

旅行先なので切れ切れといろいろなことを考えていた。方言というものがあり私も関西弁を使うが、標準語などの他の方言や自分のものと違うイントネーションの関西弁に違和感や忌避感を持ったりする。方言というのも慣習という形の1つのミームだから、それら同士で生存競争をしているのだろう。宿主に他の方言を拒否させることができれば、方言ミームは宿主の脳というニッチを守ることができる。

倉田タカシの『母になる、石の礫で』という小説では3Dプリンターによって3Dプリンターを出力している。その際出力のエラーによって出力された3Dプリンターは出力する3Dプリンターよりも精度が落ちる。新しい3Dプリンターを他の方法で作れない環境では3Dプリンターの精度は不可逆に下がり続けるのである。さて、同じように自己複製のプロセスである進化とこれは何が違うのだろうか。3Dプリンターの複製には明確な設計図がある。反対に進化に設計図は存在しない。オリジナルを理想とするならエラーを避けられない複製は単なる劣化だが、目指すべき理想のない自己複製は新たな形質を生み出す進化と呼ばれるのだ。なかなか面白い対照だと思う。

2017/4/2

アマゾンプライムに加入したのでなんか観ようと思って『ゼロ・ダーク・サーティ』を観た。主人公(CIAの女性分析官)の上司が初めは威勢良くて部下に怒鳴ったりしていたのだが、ビンラディン絶対殺すウーマンと化した主人公に行動が遅いと逆に詰められるようになるのがなんとなくかわいかった。中間管理職の世知辛さを感じる。後半、ビンラディンがいる(ような気がすると主人公が主張する)屋敷に特殊部隊が送り込まれるシーンで、真っ黒なステルスヘリがこれまた真っ黒な山肌の背景の中を静かに進んでいくシーンが良かった。いい機会なので他にも映画を見ていきたいと思う。

2017/4/1

特に嘘をつくこともなく今日も"From Bacteria to Bach and Back"を読んでいる。ミームトークン/タイプの区別が生物における個体/種に相当するという部分が面白かった。タイプを唯名論的にしか考えないのは、"Darwins's Dangerous Idea"で生物種を唯名論的にしか考えないアイデアに対応している。これはダーウィニズムをプラトン的な"essentialism"の否定と考えるデネットらしい論点と言える。物理的に存在するのはミームトークン(に相当する脳神経パターン)であり、タイプが存在するのは言語上のみということになる。このようなタイプを見出すこと、つまりパターン認識デネットは「デジタル化」と言っている。本来は無限に差異のあるアナログ的なトークンたちをタイプという「全か無か」の区別に押し込めるからだ。その際に言語の発音やフォントと言った個々のトークンに固有な要素は排除され、"phoneme"(音素)というタイプが形成されることになる。そしてこのデジタル化によって言葉というミームの複製が可能となる。またこのようにデジタル化された言葉は私たちの認識における「ユーザーインタフェース」としての役割を果たす。"Consciousness Explained"では言語が意識におけるユーザーインタフェースであるという論が展開されていたので、そことの関係を探っていきたい。

2017/3/31

"From Bacteria to Bach and Back"の今日読んだ部分で面白かったのが、脳のそれぞれのニューロンが利己的である、という論点だった。ニューロンも細胞でありその進化元をたどると単細胞生物に行き着く。ニューロンたちはそれぞれが自己保存を目指すエージェントとして活動しているのである。

What could a neuron “want”? The energy and raw materials it needs to thrive— just like its unicellular eukaryote ancestors and more distant cousins, the bacteria and archaea.
(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.162). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

そしてこの点はミームの生存競争へと繋がっていく。このミーム自然淘汰を脳のニューロンのレベルで見れば神経回路の形成/廃棄となるのだ。この淘汰は社会においてというより個人の脳内におけるものと考えた方がいいだろう。なぜなら一つのミームが様々なニューロンのネットワークによって多重実現するので、他人の脳にあるミームが自分と同じ神経パターンと対応しているとは限らないからである。

そういえばKindleに上でやっているように引用元情報付きでコピーアンドペーストする機能があるのを発見した。大変便利である。