2017/7/21

研究発表のスライドを作るのが大変で気晴らしにまた『道徳の系譜』を読んでいた。今日読んだのは第二論文『「負い目」・「良心の疚しさ」・その他』である。第二節では風習や道徳によって人間が「算定しうべきものにされた」と述べられている。これは恐らくデネットが"Darwin's Dangerous Idea"で言っていた"conversation-stopper"としての道徳という考え方に近いものを指しているのだと思う。つまり道徳に従っていることによってある程度人間の行動が予測しやすくなるために、協調行動が成り立つというものだ。また12節では以下のように述べられている。

ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、及びそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。
(『道徳の系譜』第二論文第12節 p115)

これは例えば目が見るために作られたというような誤謬であると説明されている。つまりこれはダーウィニズムの議論における"adaptation"と"adaptive"という二つの語の違いをさしているものだと思われる。ある時点の環境に対して適応した結果得られた形質が、必ずしも現在の環境にいて適応的なわけではないし、同じ目的のために使われているわけでもない。グールドはこういった事態を特に「外適応」と呼んでいるが、進化のプロセスは基本的にそうなっている。こういった議論は例えばスペンサーなどの社会ダーウィニズム批判で出てきていたと記憶しているが、そこにニーチェが影響を与えたか与えられている可能性があるかもしれない。