2017/6/5

「超越」というのは一つのテクニカルタームなのだが、最近その意味がわかってきた気がする。哲学の文脈で超越したものというとき、それは何ものか、例えば認識の可能性の限界を超えているもののことを指す。その事について、ここ最近よく考えるのが言語を超越した対象についてはどう考えればいいのかという問題である。こうして今行い書き記している思考は結局のところ言語だといえる。そして言語は対象を持っているが、その対象は言語の外にある。だから言語で記述できる以上にその対象について思考すること、つまり言語を超越した対象を想定し議論することは果たして可能なのだろうか。つまり言語の外の対象を言語を超越した実在物として扱うことはそもそも言語的思考の領分を超えているのではないか。クワインのいう存在論的コミットメント以上に私たちが存在について関与する方法はないのかもしれない。ゆえに存在とは言語に相対的なものだということになる。物理学の言語には物理学の存在者、生物学の言語には生物学的な存在者、「民間心理学」には信念などの存在者が対応していて、それらの区分を超えた絶対的な存在というものは考えられない。要するに何が言いたいかというと、存在とはそれぞれの言語の対象としてしか考えられないのである。