2017/2/26

今日はいつも通り『存在と時間』を読んだ後、舞城王太郎が原作、脚本をしているアニメ『龍の歯医者』を見た。龍とかその歯医者とか荒唐無稽な道具立てから「死ぬとわかっててなぜ生きるのか?」という人生のアクチュアルな問題が出てくるのが舞城という感じ。後半、野ノ子が「殺戮虫」(?)に立ち向かうシーンでベルの過去語りが延々続くところとか舞城がやりたそうなことだと思った。拍子抜けなほどあっさり終わるのも舞城らしいというと信者目線が過ぎるだろうか。九十九十九が出てこなかったのが少し残念な気がする。出て来たら出て来たで怒っている気もするけど。

その後ずっと友達の家でダラダラしている。なんでも東京から何人か友人が来て一週間同じ家に滞在するらしい。ハイデガーを読んでいる影響で他人といると「共同存在」というのが頭に浮かんで来てしまう。共同存在として人間を考えるというのは、ただ存在の単位をそう設定するということに過ぎない。それは単に個別の現存在が「魂」という実体によってアプリオリに個別化されているという思想を否定することなのだ。こうして他者と生活しているとき他者は近くにいるが、一人でいるとき他者がいないということではない。そのときただ他者は「遠い」だけである。たった一人で部屋にいても触れている道具は他者の関与によって作られたもので、それを使って文章を書くこの作業は誰かの目に触れ影響を与える。一つの世界「として」生きる私たちはなんらかの仕方で常に関係し合っていて、その中で近い他者と遠い他者がいるだけだ。ゆえに孤独は他者からの遠さだが、それは距離の遠さではない。だから他者の隣にいてむしろ孤独に感じるということがあり得るのだろう。