2017/4/22

セラーズの『経験論と心の哲学』をコメンタリーを除いて読み終わった。特に面白かったのが「所与の神話」を破壊するための神話と筆者が呼んでいる部分で、そこでは内的思考や感覚が観察可能な行動をモデル化したものと考えられる。まず第一に存在するのは他者や自分の観察可能な発話行為である。他者は第一に思考を声に出しながら行為するものとして現れる。そしてそのような行為についての理論が組みあがると、観察可能な発話の伴わない行為も同じモデルで捉えたいという欲求が生じてくる。このようなモデルは最初は他者を対象としていたが、それが自己を対象とし始めると内的思考そのものとして現れるのである。内的感覚についても同様の説明がなされる。この説明は内的思考を、内的なものとして間主観性を確保しているというメリットがある。

他方でこの説明をミームの視点から見たのがデネットの説明だと言えそうだ。ミームから見る利点はこのようなプロセスを私たちによる構成というより、理論(ミーム)自身による構成だと捉えられるという点である。単に観察可能な発話を伴う行為にのみ用いられるよりそれを伴わない行為も説明するモデルとなれば、ミームとしても適応度が高まっていると言えるだろう。

2017/4/21

研究室でフッサールがどこに実在性を認めていたかの話をしていて、そういえばデネットは実在や実体というものをどう考えているのか気になった。"From Bacteria to Bach and Back"での記述によると"manifest image"という世界像上に現れてくるものが"ontology"の対象であると考えいているようだ。すなわち「存在する」というのは"manifest image"上の一つのカテゴリーであって、いわゆる唯名論と捉えることもできそうである。そうなると「魂」「世界」という二元論的な対象が("manifest image"上に)「存在する」と主張することも可能であるような気がする。デネットが二元論を批判するときの論点は因果関係の断絶であり、その実在性を問題とはしていないように見える。と言うより"ontology"が"manifest image"上に現れるものというだけの意味ならば、それは究極の実体などというものを問題の対象とできないのではないか。デネットは意識的思考の能力をそこまで大それたものとは考えていないのではないだろうか。意識は単に脳内のモジュール間のユーザーインターフェースであり、それは単に実践上の役割を持っているだけでそのような存在論的な思惟を可能とするものではないとも考えられる。各々が信じる実在的対象を前提としてニッチ内での活動がうまくいくなら込み入った存在論的議論は必要ないのかもしれない。

2017/4/20

デネットがセラーズの"manifest image"という用語を連発するのでどんなもんかいなと研究室にあったセラーズの『経験論と心の哲学』を読んでいる。今のところよくわからないがとにかく分析哲学だなあという感じがする。聞きかじった知識によるとこの本は「赤色」などの感覚与件(センスデータ)が知識を基礎づけるという考え方を「所与の神話」と呼んで批判しているようだ。これも思いつきだが、このセンスデータという問題はクオリアという問題と同じものなのではないだろうか。どちらも物理的対象とは別の感覚対象と言えるものを想定している。所与の神話が崩壊して純粋な感覚対象が命題的な知識を形成するということがないなら、同様にクオリアも知識とは関わらないこととなる。このようなクオリア批判はデネットの"Consciousness Explained"にもあった。このように実践的な用途のないクオリアを経験する脳の機能が進化する理由は存在しないのである。

2017/4/19

デネットの"From Bacteria to Bach and Back"を読み終わった。過去の著作の内容を"manifest image"、パターン認識によるデジタル化、人間によるインテリジェント・デザインといった新しい用語で再構成しながら、機械学習などの最近のトピックも論じるという内容であった。特に技術論に焦点が当たっていたように思う。タイトルの"and Back"の部分はインテリジェント・デザインから機械学習遺伝的アルゴリズムなどを用いた、我々が「理解」することなく用いる技術、すなわちポスト-インテリジェント・デザインへと回帰するということを指しているのだろう。

ところでこれは単なる思いつきだが"free floating rationals"は人間以外、例えば進化のプロセスそのものが認識する「理由」なのではないだろうか。

Evolution by natural selection can mindlessly uncover the reasons without reasoners, the free-floating rationales that explain why the parts of living things are arranged as they are, answering both questions: How come? and What for?

(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.411). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

意識はミームによるユーザーインターフェースで、理由を認識する「私」はその上に現れるだけのものである。"free floating rationals"の存在を疑うこれまでの思考はまだ心身二元論的な、つまりデカルト的重力に引っ張られたものであったかもしれない。すなわち言語上の「理由空間」にしても確固とした「思考する我」が理由の認識者であるわけではない。

2017/4/18

機械学習に基づいたGoogle翻訳は文を「理解」しているのだろうか。私たちは言葉の意味をアフォーダンス環境内で「有意味なもの」として身につけるが、AIが持つ語彙は事物と結びつけられないただの記号でしかないのではないか。しかしデネットの見解は異なるようだ。

Google Translate no doubt has a rich body of data about the contexts in which “knife” appears, a neighborhood that features “cut,” “sharp,” “weapon” but also “wield,” “hold,” “thrust,” “stab,” “carve,” “whittle,” “drop,” and “bread,” “butter,” “meat” and “pocket,” “sharpen,” “edge,” and many more terms, with their own neighborhoods. Doesn’t all this refined and digested information about linguistic contexts amount to a sort of grounding of the word “knife” after all? Isn’t it, in fact, the only sort of grounding most of us have for technical terms such as “messenger RNA” and “Higgs boson”?

(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (pp.393-394). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

私たちが見たこともないものについての用語、ここでは例えば「メッセンジャーRNA」や「ヒッグス粒子」といった言葉はAIたちの語彙と変わらないのではないか?というよりむしろ、言葉が実際に触れたことのある対象に結びつけられている必要はないと言いたいのだろう。ここで言葉と結びつくアフォーダンス環境は他の言葉たちである。理解というのが「理解/非理解」という風に明確に線引きできる特別なプロパティでない以上、ボトムアップ式のAiもまた「理解」することができる。ただしAIが人間と同じ水準の、そしてそれ以上の理解を持つようになるのにはもう少し時間がかかるだろうというのがデネットの見解のようだ。

My view is (still) that deep learning will not give us— in the next fifty years— anything like the “superhuman intelligence” that has attracted so much alarmed attention recently.

(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.399). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

2017/4/17

"From Bacteria to Bach and Back"の最終章"The Age of Post-Intelligent Design"を読んでいる。"The Age of Post-Intelligent Design"というのは、その動作の内容をすべて「理解」することのできないボトムアップ式のデザインを活用していく時代のことである。例えば機械学習遺伝的アルゴリズムを活用した研究などがそれにあたる。反対に"Intelligent Design"とはユーザーイリュージョンとしての意識的思考によって生み出されるものだと言える。先まで予想することのできる能力によって生み出された"Intelligent Design"(電子回路など)を活用して進化のアルゴリズムの力を使う"Post-Intelligent Design"は新しい時代の技術と言えるのかもしれない。結局、人間がデザインしたものの動作はすべて理解されうるというのは、意識的思考が脳内で起こることをすべて理解できているという思い込みと同じものなのだろう。機械学習による判断が「託宣」だとか言って忌避感を持つのはこの辺りに原因があるのかもしれない。そもそも"Intelligent Design"にしても、例えば日常的に使っているこのラップトップの内部動作がどうなっているのかなんて知らないのだ。

2017/4/16

"From Bacteria to Bach and Back"第14章"Consciousness as an Evolved User-Illusion"を読んだ。概ね"Consciousness Explained"と同じ論旨だが説明の仕方がアップデートされているので面白い。特に興味深かったのが、自己の状態をコミュニケートするために必要だから意識はミームという形で現れて来るという点だった。

We need to keep track of not only which limbs are ours and what we’re doing with them but also which thoughts are ours and whether we should share them with others.

(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.344). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

自身の思考を観察するためには"manifest image"内で見てとるほかない(つまりミーム化されざるをえない)のだが、そのことを裏打ちする論拠と言える。ん?"manifest image"として現れるものはすべてミームなのだろうか?もう少し考えてみる必要がありそうだ。

あとは「私」の"intensional stance"とあなたの"intensional stance"は、双方ともにユーザーイリュージョンとして見出されるものであり、要するにどちらもだいたい同じものだという点も面白かった。だからこそ私とあなたが共通の"manifest image"を持つことが可能となる。というより一人称と二人称は共通の"manifest image"上で展開されるものだということだろうか。"manifest image"を「持つ」というのがそもそも変で、「私」は"manifest image"上に「現れる」ものに過ぎない。"How did our manifest image become manifest to us?"というのはそういうことだという解釈でいいのだろうか。

章の後半ではお得のクオリア論批判が"manifest image"というツールによって新たに展開されている。曰く、クオリアは"manifest image"上のユーザーイリュージョンであり、それを"scientific image"上にあるものと取り違えるから話がややこしくなる。要はヒュームのいう因果律のように外界に投射されているクオリアが、脳神経などの"scientific image"上のものと同位の存在者だと考えられているのである。

ところで"manifest image"の上手い訳語はなものかとセラーズ関連の日本語の論文を見てみたが「明白なイメージ」と訳されているようだ。原語を知っているからわかるけどこれだけ見た人に伝わるのだろうか。かといって他の訳し方も思いつかないし……。