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2017/3/5

今日は久しぶりに自室にて一人で過ごすことになったので、図書館への返却期限が迫っている『マインズ・アイ』を読み進めていた。今日読んだ部分はジョン・サール『心、脳、プログラム』、トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか?』の二つである。どちらも読みたいと思っていた論文なので襟を正しながら立ち向かった。サールの「中国語の部屋」の思考実験については編者の批判を含めてまあそうなるだろうなという感じだったので特に新規な発見はなかったが、「心がソフトウェアならそれは心身二元論ではないか?」というデネットなどの立場への批判は面白かった。サールとしては心は基板中立性のないもので、電子回路によって人間の心を実装することはできない。このことは例えば『解明される意識』で展開されるような、心をソフトウェアと理解する考え方を反証するものなのだろうか。そもそもこの論点にはソフトウェアは非物理的な実体であるという前提があるように思う。ソフトウェアはどこまでいっても記号列から読み出される意味論であり、独立に存在する実体ではない。デネットならソフトウェアという「説明のレベル」があるに過ぎず、心の理解に役立つからそのレベルで論を展開しているだけだと言うだろう。ネーゲルの論文については全編にわたって「主観的な」(もうこの単語の時点でウンザリだが)クオリアの存在を前提としているのでそれを認めないデネットとはどこまでも平行線だろうなという感じだった。

ふとハイデガーの枠組みではAIについてどのように考えられるかという疑問が起こった。ハイデガーの現存在という用語法はかなりニュートラルに定義されていて、例えば自身の存在を問題視できる人工知能がいればそれは現存在として扱えそうである。他にも遺伝子の生存機械という観点とハイデガーも関係を持たせることができそうだ。遺伝子は複製され続ける「不滅なるもの」だが、それは有意義性の連関全体としての世界が不滅であることとほぼ同義である。すると現存在の「死」はそのような遺伝子の複製連関から一つの生存機械を分節化するものだと捉えられそうだ。そのように分節化された生存機械は遺伝子とは関係なくどこまでも一つの存在者として自己の死を受け止めなければならない。これは「遺伝子決定論」への反論として使えそうな観点かもしれない。

数日前から考えている死を前にした現存在の自由についてだが、被投的に投企することにおいては自由は存在しないというのはいいとして、「死への先駆」において現存在は被投的に投企することを止め、その意味で自由ということも考えられる。死はすべての可能性が終わる場所だから、死を意識して個別化した現存在はその段階では何に対しても投企していない。そこから他の方向に目を向けて新たに投企していくという点に選択の自由があるのではないか。

2017/3/4

今日は何かをした記憶がない。毎日同じように24時間が過ぎて行くのにこうして振り返って書き留めることの有る日と無い日の差はなんなのだろうか。実在するのが現在のみであり、過去は記憶、未来は予想でしかないなら、「1日」という客観的なものは存在しない。するとその密度は単なる記憶の密度というだけでなく「存在論的な」密度だということになる。何も思い返せない1日は記憶が薄いだけでなく「客観的な実在として」薄いのである。

さて、実在する現在というのは一体なんなのだろうか。現在はたいていある瞬間、点だと考えられる。しかしこの考え方には難点があり、しばしば批判の対象となっている。現在は常に移り変わり続けているから、点としての現在を捉えることはできない。例えばベルクソンは我々が感じる時間は客観的な、量的な差異とは異なる質的な差異、「持続」だという。この持続は感覚の強度を測るものでもある。すなわち、強い感覚とはより持続する感覚なのだ。このように非質料的な時間を考えるなら「1日」というものの実在性についても違った結論が出るのかもしれない。ベルクソンについては院試のために哲学史を勉強したときに触れた以外はやっていないので詳しいことはわからないが、機会があったら考えてもいいテーマだと思う。

2017/3/3

今日は朝方までアニメ『放課後のプレアデス』を見てうめき声をあげていた。最近「二重スリット実験」の重要な含意を知る機会があったのでその辺りを踏まえて見ると理解が深まる。その含意とは「重なり合った可能性同士が干渉し合う」というものである。二重スリット実験で言えば、観測される前の光の粒子の重なり合った可能性同士が干渉し合うことで「波」であるかのような振る舞いが生じる。さて、『放課後のプレアデス』では「すばる」たち五人は一つの机に集まった(重なり合った)可能性である。彼女らが互いに関わりあって成長していくことは、上記の可能性同士の干渉を意識していると考えることができるだろう。

他に気づいた点として、「みなと」が退院する可能性は存在するというところがある。過去すばるがみなとに初めて出会う場面ではカレンダーにみなとの退院の日付が書かれている。そしてその可能性はすばるによって観測されることで確定するのである。それがどんなに小さい可能性であるとしても、みなとが未来に進める可能性は存在し、それを証明するのがすばるのなのだ。だから最終話で五人だけでなくみなともまた「もう一度同じ運命を繰り返す」という選択肢を選ぶことができたのだと思う。

2017/3/2

今日は『マインズ・アイ』に収められているレイモンド・スマリヤンの『神は道教徒か?』という対話篇を読んだ。面白かったのが自由意志と自然法則についての議論だった。登場する「神」は自然法則を現象にあとから付けられる説明だと言って、自然主義によって決定論が導かれることを否定する。自然法則から演繹的に次の現象が導かれるわけではないから、それによって未来が決定されることはない。そうすると人間の行為を全て自然法則によって説明することができても、自然法則が行為を決定することにはならない。このために自然法則が実在しないという前提が必要となる。イメージとしてはカントがカテゴリーを経験に当てはめられるものだとしたのに近い。哲学史から考えると、自然法則の発見というのは汎神論的世界観から自然に内在する神を見つけるという試みの延長である。このことは自然法則の実在性を否定する根拠になると思う。この辺りをもう少し掘り下げてまとまった記事にしたい。

他に行為を選択する「私」の存在という前提を疑うべきではないかという議論もあった。ハイデガーが世界内存在を現存在の構造と見ることに繋がる考え方だろう。世界に頽落する現存在を「死」が個別化してくれるなら、「死への先駆」において初めて行為する私が生まれるのではないか。すなわち、死を意識して世界から個別化されることで初めて自由の前提である行為者が発生する。あと「現存在の構造全体」を死を終点とする直線的なモデルで考えるのは良くない気がしている。うまく言葉にできないがそんな感じがする。やっぱりハイデガーだし常識は捨ててかからないと。

2017/3/1

今日も引き続き友人の家で寝ているのか起きているのか曖昧な状態で過ごした。『落第騎士の英雄譚〈キャバルリィ〉』というアニメを鑑賞して、前回見た時と同じく大変感動した。この手のライトノベルには「誇り」という単語が頻出するが、改めてこの概念について考えてみたい。誇りとはすなわち、自分の人生への納得のことだと思う。社会が決めた道徳がいかにもっともらしく見えても、そうすべきだと自身が納得していなければ生の充実は得られない。誰かの目を気にして行動することと、自らの信念に基づいて行動することの間には断絶がある。試合に勝つことや財、権力を得ることより「誇り」が優先するのは、結局のところ勝利や財産に納得が伴わなければ意味がないからだ。このことは幸福という捉えどころのない概念を掴む上で重要な含意を持つように思う。つまり、幸福とは納得することなのだ。どんなに貧しく理不尽に見舞われた人生でも納得が伴えば幸福と言えるし、反対に豊かですべてがうまく行く人生でもそれに納得していないなら虚しいものとなる。

2017/2/28

昨日は宿泊していた友人の家から直接アルバイトに行ってそのまま寝ていた。今日もまた午後からはその友人の家にいる。午前中は洗濯物が乾くのを待ちながら『マインズ・アイ』を読んでいた。本物と同じくらい精巧な世界のモデルを作ったときそれをどう扱うべきかという問題を扱ったスタニワフ・レムの短編が面白い。結局のところ、モデルの登場人物が本当の意味で苦しいでいるということの定義は、本物の人間と同じように苦しんでいるように「見える」ということしかありえない。その点はチューリングテストにおける知性の判定方法に通じるものがある。すなわち、知性を持つ人間と区別がつかない機械は知性を持っていると判定されるのだ。

ハイデガーにおける「自由」の扱いがやはりわからない。被投的な投企を行なっている、すなわち既に可能性に飛び込んで「しまって」いる現存在に、身の振り方を選ぶ自由があるのだろうか。ただ、デネットが"Elbow Room"で論じているように、「自由」には一言では表せない含意がある。そのあたりを再検討しながら、ハイデガーの記述を追ってみる必要があるだろう。

2017/2/26

今日はいつも通り『存在と時間』を読んだ後、舞城王太郎が原作、脚本をしているアニメ『龍の歯医者』を見た。龍とかその歯医者とか荒唐無稽な道具立てから「死ぬとわかっててなぜ生きるのか?」という人生のアクチュアルな問題が出てくるのが舞城という感じ。後半、野ノ子が「殺戮虫」(?)に立ち向かうシーンでベルの過去語りが延々続くところとか舞城がやりたそうなことだと思った。拍子抜けなほどあっさり終わるのも舞城らしいというと信者目線が過ぎるだろうか。九十九十九が出てこなかったのが少し残念な気がする。出て来たら出て来たで怒っている気もするけど。

その後ずっと友達の家でダラダラしている。なんでも東京から何人か友人が来て一週間同じ家に滞在するらしい。ハイデガーを読んでいる影響で他人といると「共同存在」というのが頭に浮かんで来てしまう。共同存在として人間を考えるというのは、ただ存在の単位をそう設定するということに過ぎない。それは単に個別の現存在が「魂」という実体によってアプリオリに個別化されているという思想を否定することなのだ。こうして他者と生活しているとき他者は近くにいるが、一人でいるとき他者がいないということではない。そのときただ他者は「遠い」だけである。たった一人で部屋にいても触れている道具は他者の関与によって作られたもので、それを使って文章を書くこの作業は誰かの目に触れ影響を与える。一つの世界「として」生きる私たちはなんらかの仕方で常に関係し合っていて、その中で近い他者と遠い他者がいるだけだ。ゆえに孤独は他者からの遠さだが、それは距離の遠さではない。だから他者の隣にいてむしろ孤独に感じるということがあり得るのだろう。