2017/11/3

諸事情でゲオルグジンメルの『社会学の根本問題』を読んだ。色々と面白い点があって良い本だったが、とりあえず印象に残った第4章「十八世紀及び十九世紀の人生観における個人と社会(哲学的社会学の例)」について書こうと思う。焦点となるのが「個人」というものが十八世紀と十九世紀でどう捉えられていたかという点である。十八世紀においては自然法則によって世界を記述するということが時代の潮流であり、そこで人間は普遍的法則によって記述される「人間」そのものと捉えられる。それゆえに様々な条件を除去した後には普遍的で無個性な「個人」が残ることになる。そのような個人はカントの言う現象界の束縛を離れているために自由であり、また普遍的であるがゆえに平等である。ここで社会思想としては一見相反する自由と平等が両立するということになる。カントはこうした人間観を持っていたがために、悟性や理性を人間一般に共通の機能として捉えていたのだろうという発見があった。もしそうでなければ、人によって違うカテゴリーを持つとか、違う推論形式を持つとかいう事態が十分あり得ることになってしまう。そしてこの後の十九世紀においてはこの個人が無個性なものではなく他者と差異を持つものとしてあって欲しいと意志されるようになる。ジンメルはいくつかの箇所で人間は差異をもっともよく認識すると述べられていて、その辺りがここに響いているのだろう。この十九世紀的個人主義は社会的分業という思想と結びつく。そして十八世紀的個人主義は始点として平等な個人間の自由競争という思想と結びついている。こうして自由主義社会の競争と分業というシステムが形成されてきたのである。

個人的な見解としては個人は全く平等な「人間」のイデアと呼べるものではない。なぜなら同じ種であってもそれぞれの個体には生物学的な差異が存在していて、本質としての人間を共有しているわけではないからである。しかし種というものが唯名論的なものであるというダーウィニズムの登場は十九世紀を待たねばならなかった。それゆえに「人間」という本質のみにたどり着けるという十八世紀的個人主義が受け容れられてきたのだろう。