2017/10/17

セラーズ"Science, Perception, and Reality"の四つ目の論文"The Language of Theories"がわからなすぎて三日くらい悶々としていた。概ねわかってきた気がするうちに書いておこう。まずこの論文は理論言語の言明とその対象の実在性をテーマとしている。まずは「意味する(mean)」がどういった意味を持つのかについての詳しい分析から始まる。大雑把にいって、理論言語の名辞はある観察言語上の名辞(ここに存在量化子がつく)の単なる翻訳ではなく、それを名指したり(name)その概念を含意したり(sense)それがその名辞に内包されていることを示したり(connote)している。そうすることである対象の観察からその理論言語上の名辞の存在を主張することができるようになる。観察される対象に存在量化子が付き、またそのことによって理論的な観察されない対象も存在することになるなら、本当に存在するのはどちらなのかという問題が生じる。その問題の解決のために、まず観察言語の帰納的一般化と理論の間の関係が分析される。理論が帰納的一般化自体を説明するものなら、ある観察された事実から一般化を引きだす(derive)することとその一般化を説明(explain)することが同一になる。本当はそうではなくて、理論は一般化を引きだすものではなく説明するものなのだ。これはなぜかというと、理論は帰納的一般化では予想できないようなことも予想するからだ。理論が説明するのは、個々の事実がなぜ一般化に適合してるのかということである。こうしてみると、経験的な世界をより下のレベルから詳細に説明する理論という図式を放棄することができる。なぜなら帰納的一般化は理論とは独立に引き出されるものであり、つまりmenifest imageとscientific imageは独立の世界観だからだ。だからと言って実在が二つある、つまり二元論に至るわけではない。観察言語と理論言語は対応原理(correspondance rule)によって連絡しているからである。この対応原理は概ね「名指す」といった表現で分析されていた事柄を指していると思う。この対応原理によって単に観察言語を理論言語の翻訳するのではなく、それぞれをそれぞれの枠内で再定義(redifinition)して、観察言語が果たしていた役割を(あくまで構文論的に)理論言語が果たすことができるようになる。こうすることで理論的対象の実在性を観察に頼ることなく主張することができるようになる。また、観察言語における一般化は理論よりも予測の力が弱いため、観察言語は理論という新しい枠組みに取って代わられる。こう考えると言及される対象は理論言語のもののみとなるので、実在は理論的対象一つということになるのだろう。

おそらくセラーズは理論の方が予測の厳密さという意味で優れていると考えているのだと思う。デネットはこの点に関して、観察言語(manifest image)は簡素であるがゆえに判断に時間制限のある生物にとって有用なのだと主張するだろう。ここはデネットがセラーズを批判的に継承した点だと言えると思う。