2017/10/9

セラーズの"Science, Perception, and Reality"の三つ目の論文"Phenomenalism"の2章〜3章を読んでいた。1章で「直接実在論」が現象学に限りなく接近していく様子が見られたが、ここでは「古典的現象学」のアプローチが詳しく検討されている。そのアプローチには三つあり、一つ目は感覚することがその対象の実在も含意する立場(esse ist percipi)、二つ目はその対象の実在を否定する立場、三つ目が現象が物理的対象の現れであるという立場(必ずしも対象の実在を含意しない)である。三つ目の立場では"S is in that state which is brought about in normal circumstances by the action on the eyes of a red and triangular physical object."といった命題の形式を持つ判断が行われており、これは現象の直接性を損なっている。3つ目の立場を捨てて二つ目の立場に戻るためには、感覚対象の実在性を否定するためにそれが「現われ」である(つまり3つ目の立場をとる)ということができない。その代案として考えられるのが「感覚する」ということは「通常の場合なら〜という性質を持つ物理的対象によって引き起こされる状態」であると言い換えることで、この場合感覚が対象の実在を必ずしも含意しない。しかしこれでは現象学ではなく実在論であり、二つ目の立場も行き詰ることになる。そこで現象学を支持する哲学者たちは二つ目の立場を変更するか、一つ目の立場、つまり「センスデータ論」に行き着くのである。おそらくここでは物理的対象とセンスデータはだいたい同じものを指している。ここで素朴実在論と古典的現象学は限りになく同じ主張をしていると考えることができる。

さて、センスデータ論においては感覚されているものが存在するものであるが、感覚されていないものが存在しないということは直観に反する。そこで彼らは「可能的感覚内容(possible sense contents)」というものを持ち出してくる。これはあるセンスデータが与えられた状況において、次にある行動をすると必ず現れるセンスデータのことである。こうすると火を見ていないときでも、次に目を開けると火を見ることが明らかならその火は可能的感覚内容として存在していることになる。しかしながらこの可能的感覚内容は今の例のように「目」などの物理的語彙によってしか定義できない。しかしセンスデータ論においてはそのような物理的対象はセンスデータとして定義されているから、ここで定義は循環してしまうのである。そこで代案として可能的感覚内容ではなく、経験からの帰納的一般化によって感覚されていないセンスデータを基礎づけようという試みが生まれる。しかし、個人の経験において一般化されるのはあくまで個人の環境や個々の対象についてのものでしかない。

Thus, the very principles in terms of which the uniformities are selected carry with them the knowledge that these uniformities are dependent uniformities which will continue only as long as these particular objects constitute one’s environment, and hence preclude the credibility of the generalization in sense content terms which abstract consideration might lead us to think of as instantially confirmed by the past uniformities.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.1786-1789). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

感覚の間主観性は経験からの一般化ではなくむしろ、「人」や物理的対象についての公的なフレームワークであると述べられている。

The fact that the noticing of complex uniformities within the course of one’s sense history presupposes the conceptual picture of oneself as a person having a body and living in a particular environment of physical things will turn out, at a later stage of the argument, to be but a special case of the logical dependence of the framework of private sense contents on the public, intersubjective, logical space of persons and physical things.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.1790-1793). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

このフレームワークはおそらくmenifest imageのことを指しているのだろうと考えられる(違うかもしれない)。