2017/10/2

セラーズ"Science, Perception, and Reality"の二つ目の論文"Being and Being Known"を読んでいる(二回目)。前半部分ではトマス的な認識論のシステムの批判として大変込み入った議論が展開されている。ちゃんとわかっているのか微妙だが頑張って要約したい。まず思考とその内容を分けるという発想を批判して、それらを統一したものである"mental word"が登場する。ところで知性(思考)はトマスのシステムにおいては「第一の働き」と「第二の働き」に分けられる。第一の働きはある内容を思考する性向であり、mental word、タイプなどと言い換えられている。対して第二の働きは個別の思考、トークンである。mental wordは物理的な対象の持つ性質とは違うものと考えられる。なぜなら物理的に三角形であることと三角形を考えることは異なっているだろうからだ。またmental word(タイプ)から知性のトークンが形成されるためには、物質と非物質のどちらにも作用する"absolute nature"が必要となる。こうして物質的なものと非物質的なものを仲立ちするのは感覚である。

The existence in the intellect of the word •triangular• as habitus is, to continue our exposition, grounded in the immaterial existence of the absolute nature triangular in the faculty of sense.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.986-988). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

感覚というものについて、知性との言語的な類似性からそれと似たものと考えられる傾向があるという。そうすると感覚にも知性のそれと似た構造があることになる。そうなると感覚にもmental word的なものがあり、それは非物質的なものとなる。これがおそらくクオリアで、しかしそういった想定をすると、非物質的な感覚と物質的な性質を結びつけるものがさらに必要になるのだと思う。これは無限退行であり、あまり歓迎できない。そこでセラーズの出す代案は以下のようなものになる。

The alternative I am recommending is to say that none of these words are present in the act of sense, for it does not belong to the intentional order. To which it can be added that the predicative word •white• doesn’t make sense apart from statement; •white and triangular thing•  presupposes •(this) thing is triangular•. Predicates cannot be in sense unless judgement is there also.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.1088-1091). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

物質的な対象と感覚は確かに別物に思えるが、それは感覚が非物質的なものだということではなく、感覚が「白」「三角形」という言葉の派生的な意味を持っているということなのだ。物質的なものと感覚は「同型(isomorphism)」であり、アナロジーの関係で繋がっている。こうして物理的なものと同型な感覚は知性の非物質的なmental wordに作用するに至る。また個々の感覚が指向性を持たないということは、それが何かについてのものではないということであり、個々の感覚として知識を構成することがない。知識は物理的世界と同形性によってアナロジカルに繋がっている言語、その全体性の中で形成されることになる。