2017/9/26

セラーズのScience, Perception, and Realityの"Being and Being Known"を読んだところあんまり意味がわからないので"Philosophy and the Scientific Image of Man"から読み返すことにした。この部分を読むのは2回目だが様々な発見がある。例えばmanifest imageの地位についてこんなこと言ってる。

Thus, the conceptual framework which I am calling the manifest image is, in an appropriate sense, itself a scientific image. It is not only disciplined and critical; it also makes use of those aspects of scientific method which might be lumped together under the heading ‘correlational induction’.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.209-211). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

manifest imageがそれ自身scientific imageならば、例えば最近ずっと読んでいた"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"で展開されていたような科学的実在論を取る(つまりscientific imageの対象を実在物と考える)とmanifest imageの対象についても実在論を取ることになるだろう。この点についてはLadymanらやDennettも同意するところであるように見える。

また心身二元論についてmanifest imageの起源から説明している部分が目についた。

For we shall see that the essential dualism in the manifest image is not that between mind and body as substances, but between two radically different ways in which the human individual is related to the world.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.296-298). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

original imageにおいては対象全てが"person"であったところ、そのカテゴリーを縮小するという形でmanifest imageが形成される。そしてpersonは予測不可能なもの、その「性格」に基づいて振舞わないものを指すカテゴリーとなり、personでないものは予測可能でその性格に基づいて振る舞うものとされる。それは人間と人間以外を分けるカテゴリーではないと考えられる(上の引用部分では"the human individual"とされている)。むしろその区別は心身二元論を指している。つまり人間において予測可能な振る舞いをする部分である身体と、予測不可能な部分である精神の区別だ。そしてそれは引用部にあるように"substance"実体の区別でなく、振る舞い方の区別である。

こう区分してみると、"intentional stance"によって予想されるのは確かに人間の振る舞いだが、それはあくまで"person"でない部分ということになるだろう。消去的還元主義を取ってもデネットのいうような貪欲でない還元主義を取っても、manifest imageにおいて予測不能な人間の振る舞いが残る以上、そうした意味での二元論は生き残るのかもしれない。繰り返しになるがそれは実体の区別ではないので存在論的な含意は持たない。仮に科学的世界観における世界が決定論的だとしても、予測できない振る舞いの領域、つまり自由の余地は残されることになるだろう。そして第一義的に考えられるのが振る舞い方である以上、存在論的に問題となるのはobjectではなくpatternの方である。この辺りもDennett(そしてLedymanなど)が受け継いでいる点だと考えられるかもしれない。