2017/9/14

昨日"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"におけるリアルパターンと数学的構造の形式的対応づけについて書いたが、「ロケーター」の扱いについて勘違いしていた気がする。数学的構造を実装する関数の変数(ロケーター)同士の関係が計算的に圧縮可能だと書いたがそれは正しくない。リアルパターンという考え方において圧縮可能なのはそのパターン自体を伝達する際の情報量である。例えばライフゲームにおいて「グライダー」というパターンはドットの配置を全て書き起こさなくても伝達可能であり、座標を変えて同じパターンを再現することができる。そしてこのような伝達と再現のことが「投射」と呼ばれているのだろう。ここで計算的に圧縮可能な関係が成り立っているのは個々の変数の間というより、その変数によって指定された要素(例えば個々のグライダー)の間である。おそらく筆者たちはこの要素が構造の項として二次的に現れてくる個物だと考えているのだと思う。そして昨日引用した部分を見るとこうやって圧縮可能な形で伝達されるのがリアルパターンということになる。

さて、これをデネットのいう「物語的重力の中心」といった考え方に適用することもできる気がする。この場合志向姿勢に基づいて言語化された振る舞いの主語(物語的重力の中心としての自己)は一つの要素を構成する変数(ロケーター)の一つであり、デネットの言うように実在物ではない。実在するのはこのように言語化された、つまりは計算的に圧縮された志向性の方である。そして言語化された振る舞いは物語を構成し、それが意識となるわけだからこの考え方では意識もまた一つのリアルパターンとなる。こうして考えるとデネット心の哲学的な主張と志向姿勢についての思想が繋がってきて面白い。