2017/9/12

今日もまた"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。第4章2節ではデネットの"Real Patterns"という論文について検討されていた。筆者たちはその論文の基本的な主張については同意しつつも、デネット実在論道具主義のどちらをとっているかあまり明確でないところを批判している。この本では構造実在論という科学法則によって記述される構造(=パターン)の実在論が取られており、この論文も当然実在論的に読まれることになる。その場合のリアルパターンとは計算的に圧縮可能なパターンのことを指す。「圧縮可能」という表現は様相性を含んでおり、様相的な構造が実在するという筆者たちの主張とも合致する。またリアルパターンは観測者の有無にかかわらず存在する実在物だと考えられる。その上でデネットが提示した圧縮可能という条件は必要条件であり十分条件ではないと論じている。

Though it offers the major achievement of the compressibility requirement—that a real pattern cannot be a bit-map of its elements—as a necessary condition on real pattern-hood, Dennett never provides an explicit analysis of sufficient conditions. (Obviously compressibility isn’t sufficient, or every redescription of anything would conjure a new real pattern into being.)
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p205)

というのも圧縮可能であることのみが条件なら単なる言い直しなどもリアルパターンに含まれてしまうからだ。

デネットの論文を自分で読む限り確かに実在論かどうかどっちつかずな印象を受ける。個人的にはデネット道具主義的な、というより存在論を道義主義的に作り変えると言う趣旨で考えているように思った。それゆえに(コンサバティブな?)実在論としての読み方は新鮮で面白かった。実際のところ「明示的イメージ」や「科学的イメージ」上の実在と世界そのものの実在を分ける考え方の方が望み薄かもしれない。ここにはフッサールからハイデガーへの転換、つまり意識の上での対象をそのまま世界における存在者と読み替えるような変遷があるように思う。