2017/7/2

理論的対象の実在性というか、存在論的コミットメントが存在論なのかどうかについて考えていた。理屈の上では例えば物理的な対象が実在しなくても物理学は理論としてはうまくいくだろう。理論上措定されることが実在することとイコールではないような気がする。しかしながらそのような意味での存在というものを語ることができるのだろうか。この点は何度も繰り返し考えているがいまだに答えが出そうにない。言語上で言及される対象以上の超越的な実在物を認識したり語ったりすることができるのか。こうやって「超越的な実在物」と言及することですでにそれは言語的な対象となっている。つまり哲学が言語の営みである以上、言語を超越した実在的対象を語ることができない。しかし言語によらない方法なら可能かもしれない。その意味で最近よく考えるのがショーペンハウアーの「意志」の認識で、あそこには論理的な証明がなくひたすら「直観」である。こうした直観を哲学だと扱ってしまっていいのかという点については議論が分かれると思う。そうした点にショーペンハウアーがあまりメインストリームの哲学者として扱われない所以があるのだろう。

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