2017/6/25

ケン・リュウの『母の記憶に』に収録されている「パーフェクト・マッチ」という短編が面白かった。生活を支援するAI(「ティリー」)による支配に争うという形式のよくあるディストピアSFだがティリーが機械学習を用いていたりして最近の感じになっている。特に興味深かったのが主人公サイがティリーの助言の「後に」自分の嗜好を認識するところだった。

ティリーはただ、ほしがっていることをサイ自身でもわかっていなかったことを見つけ出しただけなのだろうか?それともその考えをサイの頭に押しこんだのだろうか?
(p 255)

言語的認識が決断の後に生じるという見解を示す実験もある。ならば趣味判断が言語化される前に言語による助言を差し込めば、それが自己認識に取って代わることも可能かもしれない。そして言語的な自己認識は振る舞いへとフィードバックされていき、趣味嗜好や習慣、無意識の行動を形成していくのである。

他にもティリーによる支配から脱しようとする主人公たちにAIの管理会社の社長が言っていたことが面白い。

われわれは今やサイボーグ民族なんだ。ずっと前にわれわれの精神をエレクトロニクスの領域に拡張しはじめた、そしてもはやわれわれ自身のすべてを自分の脳髄に無理やりもどすのは不可能なんだ。
(p 279)

前に読んだ"The Master Algorithm: How the Quest for the Ultimate Learning Machine Will Remake Our World"という本で同じようなことが述べれられていた。

As technology progresses, an ever more intimate mix of human and machine takes shape. You’re hungry; Yelp suggests some good restaurants. You pick one; GPS gives you directions. You drive; car electronics does the low-level control. We are all cyborgs already. The real story of automation is not what it replaces but what it enables.
(ページ277).

「人間」というものをもはやタンパク質の塊と定義することはできないのかもしれない。機械は「延長された表現型」として私たちの一部であり、その中に人工知能が加わりつつあるのだろう。