2017/6/3

今日も"Sex and Death"を読んでいる。今日読んだ部分ではそもそも遺伝子とは何か、DNAだけが遺伝情報を伝達しているのかといった問題が扱われていた。まず前者について、複製の単位として遺伝子を定義するとその表現型との対応付けが難しくなり、反対に表現型から遺伝子を定義しようとするとそれがどのヌクレオチドの集団を指しているのがわからなくなる。なぜなら遺伝子が有機体を形成するプロセスは極めて複雑で、また一つの表現型を実現する遺伝子が一つとは限らないからだ。そして後者について、例えば新しい細胞膜はある細胞膜からしか作ることができないため、生殖細胞の細胞膜を通じてDNAによらない遺伝が行われている。私の考えでは遺伝子をDNA上の特定のヌクレオチド鎖に対応づけることは必ずしも必要ではない。遺伝子はデネットのいう"design stance"上で想定される対象であり、それが物理的な実在性を持つことが必要ではないからだ。つまり説明上の便利のために物理的な実在性を持たない(かもしれない)機能単位として遺伝子を考えることが否定されてしまうわけではない。これは遺伝子の反実在論とも言えるが、"physical stance"上の実在物ではなく"design stance"上の実在物だと考えるということなので、そう呼ぶかどうかは反実在論の定義によるということになる。またDNAのみが遺伝情報のキャリアではないという考え方では遺伝子の定義がかなり広く拡張されることになる。そのような広い定義の中には遺伝子をある種の情報のひとかたまりだと考えるというものもある。この定義はミームの定義に限りなく近い。そう考えるならミームが突飛な発想であるとは言えず、むしろ基本的な進化論の考え方から想定されるツールということになりそうだ。