2017/5/30

昨晩はスカイプ越しにクオリアがなぜ存在すると言えないのかを説明していたら4時になっていた。デネットが"Sweet Dreams"で述べていたことを簡単に言うと以下のようになる。例えばある写真を見ていてその一部が気づかないうちに変化しているとする。その時見ていた写真のクオリアは変化したのだろうか?変化したと答えると、クオリアの変化に気づけていないことになり、クオリア論者はクオリアに対する内的特権性を失ってしまう。反対に変化していない、つまり変化に気づいた時にクオリアが変化したのだと答えると、クオリアは私たちの認識に「与えられるもの」ではなく認識によって構成されるものとなってしまう。このようにクオリア論には色々と問題があるのだが、そもそもクオリアという語が指すものが統一的な何かなのかわからないという問題はある。論者によってクオリアとされるものの性質が微妙に異なっていることがあるし、クオリアの存在を証明するとされる様々な思考実験で導かれるものが一つのものなのかも疑わしい。その辺りを考えるならもう少しクオリアの存在を主張する人々の論をよく見てみる必要があるだろう。