2017/5/24

大学院の講義でクワインの話があったので聞いていたら気づいたことがあった。道徳の実在論/反実在論の論争に卒業論文で触れたのだが、どうして還元主義的な説明が道徳反実在論につながるのか、さらに言えば道徳を還元しないならなぜ実在論をとることになるのかがよくわかっていなかった。しかしクワインの"On what there is"の話を踏まえると以下のように考えられる。すなわち、道徳的な用語を用いた理論を展開することが、そのような道徳的価値のようなものに対して存在論的コミットメントを行うことになるのだ。反対に道徳を物理的な説明に還元することは道徳的価値の実在へのコミットを避けることなのである。これは志向的実在論/消去的唯物論の対立にも似たところがある。デネットなら道徳的価値の存在にはコミットしないけれども道徳的価値を用いた説明は、例えば時間の節約という意味で有用なので保存される(消去されない)と主張するだろう。道徳的価値が"is"の領域の説明を拒絶する"ought"の領域にあるなら、それはクオリアと同じで道徳についての科学的探究を阻害するものとなってしまう。