2017/5/21

出席しているカントの純粋理性批判を読む演習で前回の講義まとめを作る担当が回ってきたので書いていた。90分の講義の全体を網羅しようとすると3000字くらいになって結構タイヘンである。まあそれはいいとして、そのまとめに新しく因果系列を始めることのできる自由という考え方が登場して少し気になっている。これはいわゆる"agent causation"と言うやつで、形而上学的な自由としてデネットが"Elbow Room"で批判していたものを想起させる。考えてみれば変な話で、一体いかにして個人が因果系列を新しく始めるなどという権能を持ち得るのだろうか。それは世界の創造にも似た神のような所業である。こういった権利を有していると仮定すると、魂という形而上学的な実体を想定せざるをえないし、それが物理的因果系列から独立だと主張しなければならなくなる。そもそも、そのような形而上学的な自由がなければ道徳的に責任を持ち得る個人たりえないという前提が間違っているのだ。さらに言えば世界の進行が事物に内在された物理法則によって決定されるということ自体が誤りである。