2017/5/20

聲の形』のブルーレイが届いたので見ていた。今回気づいたこととして、振動としての音が作中で割と意識的に使われているという点がある。例えば高校生になった将也が硝子に初めて会いに行くシーンでは手すりに触れた時に伝わる振動で硝子が将也の存在に気づく。次に花火のシーンでは硝子が花火の音を振動として楽しんでいる様子が見受けられる。そして西宮家から転落した将也が目覚めて二人が橋の上で出会うシーンでも同じく手すりの振動によって相手の存在に気づいている。このように耳以外によって伝達される意味は別の『聲の形』としてこのタイトルが示唆するところであるだろう。言語以外にも手話、振動、表情など意味を伝達する手段が存在していて、言語に頼る私たちはそれを見逃しがちなのかもしれない。

コミュニケーションについて、クオリアの存在を信じていた時期はその伝達不可能性を問題視していた。クオリアが存在しないなら、おそらく言語化できるものは全て伝達可能である。そして言語化されないものでも、例えば痛みを感じた時の反応を見た人にその痛みは伝わる。なぜなら、主観的な「痛み」は存在せずあるのは神経的な刺激とその反応だけだからだ。そして表面的な身体の反応だけでなく、神経の動きを全てモニターできるなら人の痛みは余すことなく伝達することができる。それならばなぜ、人はこんなにも他者の痛みに鈍感なのだろうか。おそらくは、その神経的な反応を言語によって解釈する際に齟齬が生じるからなのだろう。ある人の「痛み」という言葉の使用と他の人のそれは必然的に異なっている。同じ器質を持っているとしても過去触れてきた語の使用の経験が異なっているからである。