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2017/5/17

最近以下のようなことを少し考えている。表象、クオリア、感覚与件などの非言語的な心的対象が存在するなら、それに対して非言語的な「私」があるということになる。デネットは「私」は人間の振る舞いを物語的に捉えた時の主語だと述べているが、これは純粋に言語的な「私」である。つまりデネットは非言語的な「私」を認めず、この点からも彼が非言語的な心的対象を想定していないことがわかるだろう。しかしながら、非言語的な「私」とはなんだろうか。たちどころに「魂」につながりそうな気配のある概念である。この身体の中心的な制御機構ということなら脳が非言語的な「私」ということで良さそうだが、その脳の中にも様々なモジュールがあり統一的な「私」とは言えないかもしれない。いや、脳が「私」だと述べている段階でそれは言語的なのだろうか。いやいや、「非言語的な「私」」と述べている時点でそれは言語的な概念であるような。どうやらこの方向は手に負えそうにないのでやめておこう。単に私が考えるべきことは認識対象には認識主体が対応するということだろう。これはショーペンハウアーが第一に明らかなこととして主観と客観の二分法を認めたことが大元である気がする。最近ショーペンハウアーのことはあまり考えていないつもりだが、自分の思考の源流に依然として位置していることをよく発見している。