2017/4/29

"The Master Algorithm: How the Quest for the Ultimate Learning Machine Will Remake Our World"の第3章を読んだ。ヒュームの帰納法批判の上で帰納的な「学習」を研究する意義とか、データを元に記号主義的な推論を形成する手法が書かれている。哲学をやっている身としてはヒュームの批判の回避があまり満足いくものではなかった。そこは哲学史をもう一歩進んでカントを読めばいいのにと思う。それはそうと、自分なりにそのギャップを補完するなら人間によってパターン認識された形でしか「私たちの」世界は存在しえない。だから人間のパターン認識を分析すれば世界の法則性を発見できる。言い方を変えると、世界の法則とは人間が対象を発見する方法、ヒューリスティックなのだ。物理法則に従った形でしか人間は世界を見ることができないとも言える。これこそがカントのコペルニクス展開である。そして機械学習が導く答えは人間に認識されなければ意味をなさない。ゆえに機械学習はデータから帰納的に法則を見つけ出すことが(技術的問題は別として)可能である。なぜならそのデータは人間の認識パターンに従って収集されていて、機械学習はそのパターンという法則を見つけ出せば良いからである。ただしAIの内部でどのようなパターン認識が働いているかはまた別の問題となる。その内部動作がわからないからこそ機械学習ブラックボックスなのだ。そこでは私たちはデータと推論の演繹的に妥当な関係をもはや確保できず、入力されるデータと出力される推論の間の法則性を帰納的に見つけるしかない。しかしこの帰納的推論は私たちが日常的に用いているヒューリスティックだろうし、そこまで重大な問題とはならないかもしれない。