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2017/4/21

研究室でフッサールがどこに実在性を認めていたかの話をしていて、そういえばデネットは実在や実体というものをどう考えているのか気になった。"From Bacteria to Bach and Back"での記述によると"manifest image"という世界像上に現れてくるものが"ontology"の対象であると考えいているようだ。すなわち「存在する」というのは"manifest image"上の一つのカテゴリーであって、いわゆる唯名論と捉えることもできそうである。そうなると「魂」「世界」という二元論的な対象が("manifest image"上に)「存在する」と主張することも可能であるような気がする。デネットが二元論を批判するときの論点は因果関係の断絶であり、その実在性を問題とはしていないように見える。と言うより"ontology"が"manifest image"上に現れるものというだけの意味ならば、それは究極の実体などというものを問題の対象とできないのではないか。デネットは意識的思考の能力をそこまで大それたものとは考えていないのではないだろうか。意識は単に脳内のモジュール間のユーザーインターフェースであり、それは単に実践上の役割を持っているだけでそのような存在論的な思惟を可能とするものではないとも考えられる。各々が信じる実在的対象を前提としてニッチ内での活動がうまくいくなら込み入った存在論的議論は必要ないのかもしれない。