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2017/4/11

ミームがデジタル化という認識のプロセスを経て存在するのなら、それは"competence without comprehension"による文化の進化を成り立たせることにはならないのではないか。しかしパターン認識は対象を理解することを必要とはしない。つまり先の文での認識が理解と同義ではないということだ。と言うより"gradualism"的なスペクトラムの中で考えるなら、機械的パターン認識と人間的な理解の間に厳密な線を引くことはできない。ハイデガーの「解釈」とパターン認識によるデジタル化を同列に扱う時、このパターン認識と理解の関係はややこしくなるかもしれない。ハイデガーのいう「理解」は解釈の一つの契機「あらかじめ持つこと」として考えられるからである。ただ、理解=投企=気づかいの構造が世界内存在や開示性とつながることは、"From Bacteria to Bach and Back"での"manifest image"と存在論アフォーダンスそしてデジタル化というそれぞれの思考を統一する上で役立つ気がする。