2017/3/19

存在と時間』第三分冊の読書ノートを書き終わった。そういえば書いていなかったが読んでいるのは岩波文庫版であと1冊ある。立てていた予定は3月中に第三分冊まで読めればいいなという程度だったので、ここからボーナスステージ(?)ということになる。

そのあとは引き続きデネットの"From Bacteria to Bach"を読んでいた。デザインの次にそれを正当化する「理由(reason)」が議題となる。理由には「どうして(how come)」と「何のために(what for)」の二種類があるという。進化の途上で前者しかなかった世界から後者が生まれてくるが、その発生に明確な線引きはできない。そしてこの「何のために(what for)」によって「良い」デザインと「悪い」デザインが区別され、自然選択が発生する。だからこの理由の進化が「ダーウィニズムにおける進化(Darwinism about Darwinism)」と呼ばれるのである。

デネットはデザインと同じようにこの理由も私たちが見出して初めて存在するものであると考えているようだ。道徳における反実在論と似た立場であるように思う。

The space of reasons is created by the human practice of reason-giving and is bound by norms, both social/ ethical and instrumental (the difference between being naughty and being stupid).(Dennett.D From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds 2017)

しかしその一方で私たちが見出さなくても理油は存在していると言ってる箇所もある。

So there were reasons long before there were reason-representers— us.(ibid)

ただし

Free-floating rationales(上の箇所で言われている"reasons") are no more ghostly or problematic than numbers or centers of gravity.(ibid)

と述べている点から、その理由が実在的なものだとは考えてないように読める。ここで言われているのは、私たちが理由空間を構築する以前に進化が存在しないことになるのでは、という批判への反論だというのが現状の私の解釈だ。