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2017/3/16

今日も『存在と時間』を読んだり"From Bacteria to Bach"を読んで過ごした。他にはケン・リュウの『紙の動物園』読んでいる。時にSF的な、時には幻想的な舞台装置を用いながら家族愛、生命、文化などを鮮やかに描き出していてとても良い。『円弧』『波』などの短編ではテクノロジーによって不老になった人々が様子が描かれている。死を喪失した人は自分の生についてどのように考えるのだろうか。

「あなたに死んでほしくない。死が生に意味を与えるというのは神話だわ」(ケン・リュウ『紙の動物園』/『円弧』)

しかしここで思うのが、老化を克服することで死そのものが消失したのだろうか、ということだ。例えばこの『円弧』という短編の設定では不老の治療をやめて死を選ぶことも可能である。そうでなくても、様々な事故によって体組織が不可逆的に破壊されれば不老だろうと人間は死ぬ。ハイデガーによれば、死はあらゆる瞬間に人間に備わった「可能性」である。人間の生が物理的なパターンとして完全に説明されたとしても、パターンすら破滅を避けられない。そしてハイデガーは、死という終わりがあって初めて「世界」と「私」は二つのものとなり得る、と言う。

「恋に落ち、愛を失うこともある。すべての恋愛と結婚にすべての友情ときまぐれな出会いに、円弧(アーク)があるの。はじまりと終わりが。寿命が。死が。もしあなたが求めているものが喪失なら、あなたがすればいいのは、待つことだけ」(ibid)

「死」がこの「私」の死だという考えすら、すでに「魂」とか「主体」を前提とした二元論の産物なのではないか。純粋な「私」という神話を捨てた時、第一に存在するのは「世界」において気づかわれるそれぞれの「手元にあるもの」でありそれぞれが「私」だと言える。そしてそれらそれぞれには独自の終わりがある。ここで「死」は「私」から「世界」へと解き放たれるのだ。