2017/3/11

最近読んでいる『存在と時間』の第二篇第二章がつまらない。単純に「良心」という考察の対象に興味がないというのと、体系性を確保するために仕方なくやっている感じが辛い。唯一興味があるのは、「良心の呼び声」と責任、自由などの概念が関係してくる点だ。デネットは"Elbow Room"で理性に従うことを「自由」の要件としてあげていたから、この良心と理性の関連を追ってみるのも面白いかもしれない。こう書きながら考えていると、「良心」の存在論的な基礎の分析はメタ倫理学的であり、本来なら私の興味の対象となりそうである。単純にハイデガーの記述が抽象的すぎて倫理の問題を扱っているということに気づきにくいだけなのかもしれない。

哲学をやっていると「体系性」、すなわち個別の部分が思想の全体と調和していることを気にしがちである。そしてその体系性の確保のために多大な紙面を割くということも多くある。これは専門家の間で哲学をやる上では重要なのだが、その意義が専門外の人間に理解されるだろうかという点が疑問だ。自分が哲学で食べていくということが可能であるとはあまり思っていないが、本当にそれを目指すなら気をつけなければならないポイントだろう。専門家相手に商売をするよりも、いかに専門外の人間に金を出させるかを考えた方が収益が高いだろうからである。