2017/3/10

上田早夕里の『夢みる葦笛』を読んだ。『楽園(パラディスス)』という短編に、基本的に行動を追認するだけの意識は世界の先行きを予測するために存在しているという話があった。一つの見方としてかなり有用であると感じる。ところでデネットの「ただそれだけの物語」(デネットは自身の思弁を好んでこう呼ぶ)によれば、意識は自身に語りかけることとして生み出されたらしい。だからこそ意識は言語という形をとらざるをえない。このような言語的な意識は、本来理解されえない自分の脳の振る舞いを(部分的にだが)他者に伝達することが可能となる。生物は本来、他者に理解されることを好まない。なぜなら、自分の行動を予想されてしまうとそれを先読みした他の個体によって出し抜かれて、生存の機会を損なってしまうからだ。それゆえに生物の脳は他者に理解されないようある程度のランダム性を持って駆動するようになっている。それでも幾つかの種は、自分を理解してもらおうと声を発する。それは高度な社会を形成してさらに生き残る機会を増やすためだが、周知の通りその機能は比較的新しく完全ではない。原理的に伝わりえないと理解していながらも声を上げ続ける、生物のそんな孤独を美しいと思う。

この短編には他に、電子的に増設された脳同士を接続すればその境界面上に第二の意識が生じるのではないかという話もあった。これは意識を脳のモジュール間のインターフェースと見るでネットの解釈と軌を一にするものだろう。