2017/3/8

神林長平の『言壺』を読み終えた。『跳文』という短編では言葉を通じてユーザーに疑似体験を起こすデバイスが登場する。言葉によって五感的な情景が浮かび上がるということが書かれていたが、少し疑問がある。私が小説を読むとき、あまり具体的なイメージを想起して読むということがない。他の人の話を聞くと、景色を見たりキャラクターに声をつけて呼んでいるそうだ。デネットが言うように、思考の上を走る言語が脳のモジュール間のユーザーインターフェースなら、私の読み方は表象を介さずにそのインターフェースを直接表示するようなものだろう。反対に、文字情報から情景を思い浮かべるというのは、例えるならコンピュータのグラフィカルユーザーインタフェースを見てその背後でどのような機械語によって回路が動いているかを想像するようなことになりはしないか。このようなプロセスによって文章を読むのは「遅い」気がしてならない。それは単に私が視覚像や音声にあまり価値を置いていないというだけかもしれないけど。視覚像にリアリティの比重を置く人からすれば、視覚化されないただの文字の羅列にこそ意味がないのかもしれない。つまり、私のリアリティは文字にあるということになる。こう書くとやはり自分の方が異常な気がしてくる。これは経験則なのだが、他人の振る舞いに違和感を感じてそれを詳しく考えていくと異常なのは実は自分だったというオチが付きがちである。いつも世界は正しく、私はそこに参加できない。