2017/3/7

積んでいる数多の本の一冊、神林長平の『言壺』を読んでいる。『被援文』という短編はネットに接続された文章作成支援機械「ワーカム」を通じて他人の妄想が自分の中に入り込んでくるという話である。この短編小説自体がワーカムによって書かれた文章である以上、ネットを通じてミームが直接的に文章に介入してくる。そして私たちの意識的思考が言語的なものである以上そのことは単なる小説上のフィクションではない。あるいは、私たちの意識自体がフィクションであると言った方が正確かもしれない。さて、このような事情は何もこの短編に限った虚構ではない。この短編ではワーカムという仮想の道具によってそれが加速させられているだけで、ミームの侵食は私たちの今日の活動でも日常的な出来事なのだ。

インターネットで「ミーム」という単語を目にするとき、十中八九ドーキンスが鋳造した本来の用法とは離れて使われている。これを正すべきかということは『利己的な遺伝子』を初めて読んだ3年前からずっと続いている悩みである。「インターネットミーム」などと言われるとき意図されているのは広がっていく力の強い情報という程度だろうが、普遍的だろうがマイナーなものだろうが複製される情報は全て「ミーム」という概念に包括される。ただし、「インターネットミーム」という語が指す対象も本来の意味での「ミーム」の一部分はあるので必ずしも間違っているわけではない。このあたりも正すべきか否かという悩みを深める原因である。