2017/3/4

今日は何かをした記憶がない。毎日同じように24時間が過ぎて行くのにこうして振り返って書き留めることの有る日と無い日の差はなんなのだろうか。実在するのが現在のみであり、過去は記憶、未来は予想でしかないなら、「1日」という客観的なものは存在しない。するとその密度は単なる記憶の密度というだけでなく「存在論的な」密度だということになる。何も思い返せない1日は記憶が薄いだけでなく「客観的な実在として」薄いのである。

さて、実在する現在というのは一体なんなのだろうか。現在はたいていある瞬間、点だと考えられる。しかしこの考え方には難点があり、しばしば批判の対象となっている。現在は常に移り変わり続けているから、点としての現在を捉えることはできない。例えばベルクソンは我々が感じる時間は客観的な、量的な差異とは異なる質的な差異、「持続」だという。この持続は感覚の強度を測るものでもある。すなわち、強い感覚とはより持続する感覚なのだ。このように非質料的な時間を考えるなら「1日」というものの実在性についても違った結論が出るのかもしれない。ベルクソンについては院試のために哲学史を勉強したときに触れた以外はやっていないので詳しいことはわからないが、機会があったら考えてもいいテーマだと思う。