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2017/3/2

今日は『マインズ・アイ』に収められているレイモンド・スマリヤンの『神は道教徒か?』という対話篇を読んだ。面白かったのが自由意志と自然法則についての議論だった。登場する「神」は自然法則を現象にあとから付けられる説明だと言って、自然主義によって決定論が導かれることを否定する。自然法則から演繹的に次の現象が導かれるわけではないから、それによって未来が決定されることはない。そうすると人間の行為を全て自然法則によって説明することができても、自然法則が行為を決定することにはならない。このために自然法則が実在しないという前提が必要となる。イメージとしてはカントがカテゴリーを経験に当てはめられるものだとしたのに近い。哲学史から考えると、自然法則の発見というのは汎神論的世界観から自然に内在する神を見つけるという試みの延長である。このことは自然法則の実在性を否定する根拠になると思う。この辺りをもう少し掘り下げてまとまった記事にしたい。

他に行為を選択する「私」の存在という前提を疑うべきではないかという議論もあった。ハイデガーが世界内存在を現存在の構造と見ることに繋がる考え方だろう。世界に頽落する現存在を「死」が個別化してくれるなら、「死への先駆」において初めて行為する私が生まれるのではないか。すなわち、死を意識して世界から個別化されることで初めて自由の前提である行為者が発生する。あと「現存在の構造全体」を死を終点とする直線的なモデルで考えるのは良くない気がしている。うまく言葉にできないがそんな感じがする。やっぱりハイデガーだし常識は捨ててかからないと。