2017/2/28

昨日は宿泊していた友人の家から直接アルバイトに行ってそのまま寝ていた。今日もまた午後からはその友人の家にいる。午前中は洗濯物が乾くのを待ちながら『マインズ・アイ』を読んでいた。本物と同じくらい精巧な世界のモデルを作ったときそれをどう扱うべきかという問題を扱ったスタニワフ・レムの短編が面白い。結局のところ、モデルの登場人物が本当の意味で苦しいでいるということの定義は、本物の人間と同じように苦しんでいるように「見える」ということしかありえない。その点はチューリングテストにおける知性の判定方法に通じるものがある。すなわち、知性を持つ人間と区別がつかない機械は知性を持っていると判定されるのだ。

ハイデガーにおける「自由」の扱いがやはりわからない。被投的な投企を行なっている、すなわち既に可能性に飛び込んで「しまって」いる現存在に、身の振り方を選ぶ自由があるのだろうか。ただ、デネットが"Elbow Room"で論じているように、「自由」には一言では表せない含意がある。そのあたりを再検討しながら、ハイデガーの記述を追ってみる必要があるだろう。