2017/2/22

今日も朝から『存在と時間』と『マインズ・アイ』を読んでいた以外は特に何もしていない。『マインズ・アイ』は上巻を読み終わった。毎日同じ空間で同じ動作しかしていないのに、目で追う文字が違うだけで日々が豊かなのは少し不思議だ。豊かさの基準を身体に置くか思考に置くかということだろう。しかし思考も脳という器官の振る舞いなのだからそれはどちらでも同じことだ。心身二元論の呪縛は根深い。

『マインズ・アイ』では脳を身体から切り離して無線接続した時、「私」というものは脳と身体のどちらに感じられるかという問題が取り上げられていた。感覚する身体の方に「私」を感じてしまうだろうことは想像に難くない。それはつまり感覚されたもの、というより感覚そのもの「のもとで」私たちが存在しているということかもしれない。これはハイデガーの考え方だが、心の哲学に応用できそうだ。今後検討していく課題となる気がする。

ところで、略語を多く使う人はそれが相手に理解されるだろうという「信頼」を持っているのだろうと思う。共通する文脈がなければ略語を元の言葉に復号して解読することはできない。私は他者を信頼できる人間が嫌いか、もしくは羨ましい。無関心でなく嫌いという感情が生まれる以上は自分の中に他者を信頼したいという欲求が燻っているのだろう。そもそも自分は他者に理解されるように振舞ってこなかったし、その経験則のために信頼を持てないのだと思う。他者を嫌うことの原因は常に自分にある。何かへの絶望は、その何かへの理想があって初めて可能となるからだ。