2017/2/21

日記をつけることにした。

朝起きてノートをとりながら『存在と時間』を読み、夕方からはデネットとホフスタッターの『マインズ・アイ』を読むというのを毎日繰り返している。複数冊平行して読んでいると、一冊に集中している時よりも1日を振り返った時の何かを成し遂げた感じが強くなる気がする。理解の効率がどうなるのかはわからないけど。

存在と時間』の今日読んだところには

だれも他者から、その者が死ぬことを取りのぞくことはできない。(Keiner kann dem Anderen sein Sterben abnehmen.)

という文があった。人の死はその人にだけ課せされたもので、誰かに代わってもらったり代わってあげることはできない。テレビを見ていたら最近出家した女優が出した本に「死にたい」という言葉がたくさんあったことについてコメンテーターが難色を示していた。「死にたい」と述べることの何がそんなに問題なんだろう。ある人の死について、他者が何かを言う権利があるのだろうか。自分が死んだ後に残される世界に責任を持てる人間は存在しないのだから、自分の死について誰かにとやかく言われる筋合いはない。

『マインズ・アイ』では神経回路から表象までに至るシステムの階層の話が出てきた。脳内の神経回路の働きを「シンボル」のレベルで理解する働きもまたニューロンの発火の集積なわけだから、とてもややこしい。「私」が理解されるものそのものとして存在しているというハイデガーの議論が使える気がする。

あと長谷敏司の『仕事がいつまでたっても終わらない件』を読んだ。読んでばかりだ。この短編は話自体が非常に面白い上に近未来SFとしての示唆にも富んでいてとても良かった。民意をフィードバックして政治の意思決定を行うAIというアイデアは同著者の『BEATLESS』にもある。AIを使って意思決定する人はAIがどう動いているか分からないからサイコロを振って意思決定するのとあまり変わらないというのは面白い観点だった。確かに質的な差異はないだろうが、その決定を取り巻く信念の環境は違う。「正しさ」は信念の環境に相対的だからAIの方がサイコロより良い答えを出すだろうという信念は保存されうるだろう。