2017/9/27

今日もScience, Perception, and Realityの"Philosophy and the Scientific Image of Man"をうろうろしていた。気になったのが"predictable"と"caused"を分けているこの部分で、はじめそれ以前の部分で言われる"character"と"nature"のことを指しているんだと考えていたが、どうにも違う気がする。

Just as it is important not to confuse between the “character” and the “nature” of a person, that is to say, between an action’s being predictable with respect to evidence pertaining to prior action, and its being predictable no holds barred, so it is important not to confuse between an action’s being predictable and its being caused.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.343-345). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

以下の部分を読むと"nature"というのは振る舞いの予測可能な部分で、そのうちで過去の振る舞いの履歴を参照して予想される部分集合が"character"からくるものだというふうに解釈できる。

Thus the behaviour of a burnt child with respect to the fire is predictable, but not an expression of character. If we use the phrase, ‘the nature of a person’, to sum up the predictabilities no holds barred pertaining to that person, then we must be careful not to equate the nature of a person with his character, although his character will be a “part” of his nature in the broad sense.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.320-322). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

つまりnatureに従った振る舞いも予測可能なもので、それは"predictable"と対置される"caused"な行為ではあり得ない。それでどんな行為が因果的に「引き起こされる」のだろうかとよく読んでみると以下のようなことが書いてある。

To the extent that relationships between the truncated “persons” of the manifest framework were analogous to the causal relationships between persons, the category itself continued to be used, although pruned of its implications with respect to plans, purposes, and policies.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.351-353). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

おそらく因果関係はpersonにおける関係を指している。そしてそれと類推的な意味で、manifest imageにおけるperson以外(truncated “persons”)において因果関係が使われる時、それは計画とか目的というものを意味している。ということは反対に、personにおける因果関係も目的を含んだものと読めるのではないだろうか。この解釈を裏付けるものとして以下の部分が挙げられる。

For my present purposes, the most important contrasts are those between actions which are expressions of character and actions which are not expressions of character, on the one hand, and between habitual actions and deliberate actions, on the other.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.306-307). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

ここで習慣的な行為と対置されるのが意図的な行為であり、習慣的=予測可能と読むなら因果的=意図的と読めるだろう。ここで何がやりたいのかというと、二元論における精神に属する振る舞いは単に予測不能なカオスではなく、アリストテレスの四原因でいう目的因によって引き起こされる、つまり目的論的に秩序づけられているという主張だと思う。単に予測不能なだけなら、複雑系の振る舞いもそれに当てはまるだろう。複雑系の振る舞いが私たちの知的行為と同じカテゴリーに属すというのは直感に反している(「神の見えざる手」といった思考を考慮に入れるならその限りではない)。

2017/9/26

セラーズのScience, Perception, and Realityの"Being and Being Known"を読んだところあんまり意味がわからないので"Philosophy and the Scientific Image of Man"から読み返すことにした。この部分を読むのは2回目だが様々な発見がある。例えばmanifest imageの地位についてこんなこと言ってる。

Thus, the conceptual framework which I am calling the manifest image is, in an appropriate sense, itself a scientific image. It is not only disciplined and critical; it also makes use of those aspects of scientific method which might be lumped together under the heading ‘correlational induction’.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.209-211). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

manifest imageがそれ自身scientific imageならば、例えば最近ずっと読んでいた"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"で展開されていたような科学的実在論を取る(つまりscientific imageの対象を実在物と考える)とmanifest imageの対象についても実在論を取ることになるだろう。この点についてはLadymanらやDennettも同意するところであるように見える。

また心身二元論についてmanifest imageの起源から説明している部分が目についた。

For we shall see that the essential dualism in the manifest image is not that between mind and body as substances, but between two radically different ways in which the human individual is related to the world.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.296-298). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

original imageにおいては対象全てが"person"であったところ、そのカテゴリーを縮小するという形でmanifest imageが形成される。そしてpersonは予測不可能なもの、その「性格」に基づいて振舞わないものを指すカテゴリーとなり、personでないものは予測可能でその性格に基づいて振る舞うものとされる。それは人間と人間以外を分けるカテゴリーではないと考えられる(上の引用部分では"the human individual"とされている)。むしろその区別は心身二元論を指している。つまり人間において予測可能な振る舞いをする部分である身体と、予測不可能な部分である精神の区別だ。そしてそれは引用部にあるように"substance"実体の区別でなく、振る舞い方の区別である。

こう区分してみると、"intentional stance"によって予想されるのは確かに人間の振る舞いだが、それはあくまで"person"でない部分ということになるだろう。消去的還元主義を取ってもデネットのいうような貪欲でない還元主義を取っても、manifest imageにおいて予測不能な人間の振る舞いが残る以上、そうした意味での二元論は生き残るのかもしれない。繰り返しになるがそれは実体の区別ではないので存在論的な含意は持たない。仮に科学的世界観における世界が決定論的だとしても、予測できない振る舞いの領域、つまり自由の余地は残されることになるだろう。そして第一義的に考えられるのが振る舞い方である以上、存在論的に問題となるのはobjectではなくpatternの方である。この辺りもDennett(そしてLedymanなど)が受け継いでいる点だと考えられるかもしれない。

2017/9/20

"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読み終わった。最後の6章ではこれまでの議論を振り返りつつ、筆者たちの検証主義的立場が単なる経験論ではないという点が論じられていた。確かに科学が検証によって進められるという立場は経験論的ではある。しかしながら筆者たちにとってのそれは単に観察可能/観察不可能という人間の認識上の制約により知識を区別するものではない。(特殊科学の)リアルパターンは投射可能性の範囲を持っていて、その投射=情報の伝達が可能な範囲が検証主義的に正当化される観察の範囲なのだ。

We have now said enough to be able to state informatively our version of a normative verifiability criterion: the science and metaphysics of a community of inquirers should remain silent about putative domains of inquiry from which the community is collectively informationally disconnected.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p309)

このような投射可能性の領域は情報的な概念であり、人間の認識から独立した客観的なものである。それゆえに筆者たちの検証主義は人間中心主義的な経験論ではない。だからこそこの検証を人間以外、例えば高度な計算機が行うことも可能となってくる。

As discussed in Chapter 4, many perspectives are unoccupied, or occupied only by very stupid agents. (Increasingly many perspectives are occupied by information processors that are more powerful than humans or networks of humans; large computers open new informational channels (Humphreys 2004).)
(ibid p308)

人間が行なっていたリアルパターンの探求という意味での科学を計算機が受け継いでいくというのは魅力的なヴィジョンだと思う。というより現在すでに科学は計算機なしでは成り立たないわけだから、科学は人間のみによって行われる営みではないとも考えられる。

2017/9/19

"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"の5章まで読み終わった。この章で面白かったのが"indexical redundancy"という概念だった。これは同じリアルパターンが観測されうる範囲を表す概念となっている。あるリアルパターンがより広い領域で観察されるなら、様々な場所で同じ観察をすることの冗長性は高くなり、反対に特定の領域でしか観察されないなら観察の冗長性は低くなる。

Let us say that to the extent that a real pattern is fully measurable from many locators it has high indexical redundancy. This is not to be confused with informational redundancy (which undermines pattern reality) as invoked in the definition of a real pattern. The idea is that for patterns with high indexical redundancy, most measurements carry no new information about them to most measurers.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p295)

筆者たちは基礎物理学と特殊科学の区別を、その対象領域の広さによって定義している。すなわち基礎物理学は宇宙のどこでも成り立つが、特殊科学は地球上などの限られた領域でしか成り立たない。このことと"indexical redundancy"が対応していて、基礎物理学は"indexical redundancy"の(無限大に)高いリアルパターンを探求する学問、そして特殊科学はそれが比較的低いリアルパターンを探求する学問なのだ。このことからまたリアルパターンの持つ様相性もクリアに見通せるようになる。リアルパターンは投射可能性を持っているが、その可能性の範囲を決めるのがこの"indexical redundancy"なのだ。そして筆者たちは基礎物理学においては但し書きのない、必然的な法則が成り立つとしているが、それは基礎物理学が"indexical redundancy"が無限大のリアルパターンを対象としているからなのである。

2017/9/15

"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"における筆者たちの「存在論的構造実在論(OSR)」が細かく見えてきたので、そこでトークンとタイプの区別がどう考えられるのかが気になった。「ロケーター」はタイプ/トークンの区別にはコミットしていないらしい。

Use of a locator in a given instance involves no commitment to a type–token distinction: there are locators for each of ‘Napoleon’, ‘French emperors’, ‘French people’, and ‘people’.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p122)

そうなるとトークンとタイプに相当するのはロケーターによって指定されるパターンの要素とリアルパターンだと思う。例えばライフゲーム上に現れる一つの「グライダー」はトークン、圧縮して伝達される「グライダー」リアルパターンはタイプである。デネットが言うようにトークンがアナログ的に無限の差異を持っているなら、それを指定するロケーターは原理上無限に存在しうることになる。しかし物理学の方程式に含まれる変数は有限だろう。つまりリアルパターンはトークンが持つ性質のうちいくつかを計算的に圧縮して伝達することになる。これがデネットのいうデジタル化という操作に相当するだろう。しかしながら存在論的構造実在論においては存在するのは第一にリアルパターン、つまりタイプの方である。だから先にデジタルなものが存在して、個々のトークンを後から想定するということになるだろう。つまりデジタル化というのは話の順番が逆なのである。

そのようにデジタルなリアルパターンといっても私たち観察者はその全てを(経験的に、または時間制約上)知ることはできない。

All sorts of inferences about the state of Napoleon’s hair at other times during his life could be made from the inaccessible information if we had it, so there are aspects of the real pattern that is Napoleon—projectible, non-compressible regularities—we are missing and can’t get. Such is the fate of observers.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p241)

その上で我々が日常用いる対象、そして個別科学の対象は「二階の(second-order)」リアルパターンと言われる。これは基礎物理学の対象である「一階の(first-order)」リアルパターンの表象として考えられている。しかしそれでも二階のリアルパターンもまた実在物であるようだ。

‘Being second-order’ is not a property of a real pattern that makes it ‘less real’; calling a real pattern ‘second-order’ merely says something about its historical relationship to some other designated real pattern, and so ‘is second-order’ should always be understood as elliptical for ‘is second-order with respect to pattern Rx’.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p243)

それぞれのスケールに相対的な存在論を考える以上、二階のリアルパターンが実在するという主張は必然だろう。しかしこの主張とリアルパターンがもっとも低い「論理深度(logical depth)」を持たなければならないという制約は両立するのだろうか。スケールの大小と計算的な複雑さはあまり関係ないと考えれば二階のリアルパターンが最小の論理深度を持つと想定することもできるかもしれない。これは例えば神経心理学から人間の振る舞いを考えるよりも志向姿勢によって分析する方が計算的に簡単(もしくは同等)だという事態を指す。デネットはこの考え方を支持しているし、筆者たちもそれは経験的に検証されるべきだと言いながらもその可能性を否定していない。

2017/9/14

昨日"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"におけるリアルパターンと数学的構造の形式的対応づけについて書いたが、「ロケーター」の扱いについて勘違いしていた気がする。数学的構造を実装する関数の変数(ロケーター)同士の関係が計算的に圧縮可能だと書いたがそれは正しくない。リアルパターンという考え方において圧縮可能なのはそのパターン自体を伝達する際の情報量である。例えばライフゲームにおいて「グライダー」というパターンはドットの配置を全て書き起こさなくても伝達可能であり、座標を変えて同じパターンを再現することができる。そしてこのような伝達と再現のことが「投射」と呼ばれているのだろう。ここで計算的に圧縮可能な関係が成り立っているのは個々の変数の間というより、その変数によって指定された要素(例えば個々のグライダー)の間である。おそらく筆者たちはこの要素が構造の項として二次的に現れてくる個物だと考えているのだと思う。そして昨日引用した部分を見るとこうやって圧縮可能な形で伝達されるのがリアルパターンということになる。

さて、これをデネットのいう「物語的重力の中心」といった考え方に適用することもできる気がする。この場合志向姿勢に基づいて言語化された振る舞いの主語(物語的重力の中心としての自己)は一つの要素を構成する変数(ロケーター)の一つであり、デネットの言うように実在物ではない。実在するのはこのように言語化された、つまりは計算的に圧縮された志向性の方である。そして言語化された振る舞いは物語を構成し、それが意識となるわけだからこの考え方では意識もまた一つのリアルパターンとなる。こうして考えるとデネット心の哲学的な主張と志向姿勢についての思想が繋がってきて面白い。

2017/9/13

今日も"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。4章4節"RAINFOREST REALISM"ではデネットのリアルパターンと数学的な構造の対応が形式的に議論されている。あまりよくわかっていないと思うがなんとか再構成してみたい。数学的な構造は具体的なリアルパターン(この場合実在物である)となんらかの関数によって対応づけられる。この際関数にはいくつかの変数があり、それらがこの対応づけにおける「ロケーター」として機能する。このロケーターは筆者たちの構造実在論において「個物」の代替となるものである。また変数が複数考えられることからリアルパターンは次元性を持っている。これは例えば変数を縦横高さの三つだと考えるとわかりやすい。関数の変数同士の間には(関数なので当然)なんらかの関係性が成り立っている。これがロケーターによって具体化されたリアルパターンである。リアルパターンは計算的に圧縮可能なアルゴリズムであるから、これらの要素間の関係(「投射」と呼ばれる)は計算的なものとなる。この関係性は(計算なので)あるスケールの視点においてある計算機によって実装されるが、その際にこの関係が成り立つ可能性という概念を導入して様相性が確保されているようだ。このようにして以前に批判されていたリアルパターンであることの十分性の欠如が克服されている。

To be is to be a real pattern; and a pattern is real iff
(i) it is projectible under at least one physically possible perspective; and
(ii) it encodes information about at least one structure of events or entities S where that encoding is more efficient, in information-theoretic terms, than the bit-map encoding of S, and where for at least one of the physically possible perspectives under which the pattern is projectible, there exists an aspect of S that cannot be tracked unless the encoding is recovered from the perspective in question.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p226)

その十分性というのはおそらく「物理的に可能な」視点や計算機といった実装手段を指しているのだろう。これは人間に実現可能なものを超えているので完全に経験的な制約というわけではない。